遠い南極(8)

 3月14日は、高校入試の合格発表だった。16時に無事発表が済み、16時半から職員の最終打ち合わせが行われることになっていた。会議室に入ると、校長が慌てたように私を手招きする。校長は私を外に連れ出した。もちろん、手招きをされた瞬間に、回答が来たことは分かった。校長は外に出ると、他の職員から見えない方向を向いて、胸の前で腕をクロスさせ「×」を作った。
 ああ、終わったな、と思った。私は、「仕方ありませんね。ご面倒お掛けしました」とだけ言った。ショックはもちろんあった。しかし、待つことにすっかり疲れていた私は、×でも○でもいいから早くはっきりさせてくれ、という気分になっていた。震災後のPTSDと同様、発生した問題が大きければ大きいほど、その瞬間ではなく、時間が経ってからダメージが大きくなってくる、という人間の心理もある。だから、校長から結果を知らされた時のショックはさほど大きくなかった。
 数日後、極地研から県教委に届いた選考結果通知の文書(コピー)が、県から転送されてきた。「選考の結果、ご推薦いただきました下記の応募者については、残念ながらご希望に添うことが出来ない結果となりましたのでお知らせします。」という決まり文句だ。私が南極に対する未練と、不採用の悔しさを激しく感じるようになったのは、それを目の前にした頃からである。今年は11月から南極と心の中で決めていたこともあって、1年間学校にいるんだよ、と言われても、仕事の意欲が湧いてこない。県で門前払いは願い下げだが、極地研に落とされるのはまだ諦めがつく、という思いは予め持っていたつもりだが、頭で分かっているというのと、心がそれを受け入れられるのとはまた別の話である。
 考えても仕方がないと思いつつ、自分はなぜ不採用になったのだろう?と考えてしまう。もちろん、募集要項を読む限り、あの南極授業案が合格水準に達していなかったのだ、ということになる。しかし、南極に行く前に書いた授業案で採否を決めるというのは、どうしても信じられない。年齢も性別も教科も不問と言いつつ、やはり年齢は不利に働いたのではないか?いや、昨年、運営母体が違うとはいえ、宮城県(国立)から採用者が出ていたことの方が逆風として大きかっただろう・・・。
 「募集要項」によれば、採用通知を受け取った人は、3月中旬以降に身体検査を行い、問題が無ければ同行者候補者として文科省に推薦され、6月中旬に同行者として最終決定されることになっている。公表されるのはその後だ。果たしてどんな人が選ばれるのか知らないが、案外、簡単に推薦書に印を押してくれる県に住んでいて、ほとんど思いつきのように応募した人が採用されるような気がする。この世は常に不条理である。
 というわけで、本来は、ここから出発までのいきさつも含めて、もしかすると別のブログかホームページを立ち上げて大々的な「南極シリーズ」が始まる予定だったし、事前に応援や励ましを下さった方、今回の連載を読んで下さっていた方にはたいへん申し訳ないのだが、結末はこのように情けないものであった。
 南極に行く方法は、観測隊に参加するだけではない。半月ほど前にも、日本発着のツアーの広告が新聞に出ていた。一般的な南極ツアーはほとんど全て、アルゼンチンから豪華客船に乗って南極半島を往復してくるというものだ。若干の上陸時間がある。だいたい日本から往復2週間で150万円くらい。『地球の歩き方 GEM STONE』というシリーズで、「南極大陸完全旅行ガイド」なる本まで出ている。しかし、お金の問題ではなく、私はそれに参加してみたいと思ったことはない。
 南極半島を豪華客船で往復するのは、江戸時代の南蛮人が、日本に行くといって長崎の出島に入港するのと同じことだと思っている。それが本当に南極に行ったことになるだろうか?ツアーの目的地は、南極条約による管理区域(南緯60度以南)ではあるけれども南極圏(南緯66度以南)外だ。なんといっても時間が短すぎる。氷海を砕氷航行するということもない。1年を南極に暮らす(暮らした)各分野の最前線にいる研究者たちから耳学問をするチャンスもない。極地観測の舞台裏を見る機会もない。大氷原を目にすることも、そこを雪上車で走ることもない。オーロラも見られない。教員派遣に落ちた今でも、だったらツアーで、などという気は微塵も起こってこないのである。飛行機による数百万円の南極点到達ツアーでも同じである。
 落ちない、と信じていたためでもあるが、落ちたらどうしよう、ということは考えていなかった。県には、とにかく今年1回だけ推薦して欲しい、とお願いをした。だから、普通に考えれば2回目はない。落選通知を受け取って1ヶ月半がたち、こんな文章を書くことができるところまでは平静を取り戻したが、南極を諦め切れているかといえば、とてもそうとは言えない。では、何か方法があるかと聞かれれば、なんとも答えられない。宮城県の職員という立場がなく、自分で自由に動けるなら、越冬隊の観測補助員でも応募できるが、残念ながら立場上の制約は厳しい。何をするにしてもマイナス評価を受けるであろう年齢は、自分の努力で改善することができない。
 西堀栄三郎氏は『石橋を叩けば渡れない』で、「やるかやらないかを決心する前に、こまごまと調査すればするほど、やめておいた方がいいんじゃないかということになる。」「決心してから実行案を考えるのでなければ、新しいことはできません。」と書いている。同『五分の虫にも一寸の魂』(生産性出版、1984年)には、1972年に西堀氏他がネパール・ヒマラヤのヤルン・カン(=カンチェンジュンガ西峰、8505m)の登山許可を取得した時の話が出てくる。10月末になって突然、翌年の登山を許可するという通知が国王から届いた。翌年、モンスーン期に入る前の5月20日までに登山行動を終えるためには、12月末までに荷物を発送する必要がある。そんなことは絶対に不可能だと言う隊員を、西堀氏は「先程から聞いとると、不可能じゃ不可能じゃとばかり言うとるけど、不可能を可能にする方法を君は知らんのか?」「先程から君の言うてるのは常識的に考えたらできません、と言うとんのやから非常識にやればええんや。非常識にやりたまえ。」と叱り飛ばす。その結果、彼らは12月末までの荷物発送、翌年の初登頂に成功した。
 西堀教徒である私は、さてここでどうすべきか。ここからこそが考えどころかも知れない。南極は「常識」の範囲にはなく、果てしなく遠いのであった。(完)
(参考→「永遠に遠い南極」に続く)