「逆接」の働き

 国語の授業をしていて、いつも気になっていることがある。私にとってはごく当たり前のことなのだが、どうやら他の人にとっては全然当たり前のことではないらしいぞ、ということをいよいよもって強く感じるので、書いておこうかと思うようになった。それは、「逆接」とは何か?ということである。
 授業中、たとえば「しかし」という言葉が出て来たとして、その性質を生徒に尋ねると、「逆接」だと言う。確かにその通り。では「逆接」って一体何なの?と尋ねると、「内容的に逆のものをつなぎ合わせる言葉」と答える。誰に聞いても似たり寄ったり。言葉は多少違うが、ほぼ同じことを答える。どうやら小学校以来、そのように教えられてきたらしい。あながち間違いとは言えない。例えば、権威ある辞書の「逆接」についての記述を見てみよう。生徒の答えより小難しい言葉で、基本的には同じことが書いてある。

「一個の文、または連文節を、矛盾、対立する要素があるものとして結び付ける形式。」(小学館日本国語大辞典』新版)

「文または句の接続の仕方の一つ。後続する句または文の内容が、先行する句または文から予想・推論される内容と異なっているような場合の接続」(岩波書店広辞苑』第七版)

 申し訳ないけど、私は生徒の答えについて「そんなのはデタラメだ!」と声を荒げた上で(笑)、次のような例文を黒板に書く。

 A)○○君は全く勉強が出来ない。しかし、とてもいい人だ。
 B)○○君はとてもいい人だ。しかし、全く勉強が出来ない。

 「AとBがまったく同じ内容だと思う人手を挙げて」と言うと、まず間違いなく、誰も手を挙げない。次に、「自分が○○君だとして、人から言われるとしたらこちらがいいな、と思う方に手を挙げて」と言うと、ほとんどの生徒はAに手を挙げる。
 逆接続詞「しかし」を挟んで、否定的なことと肯定的なことが書かれている。その意味で、確かに「しかし」は「内容的に逆のものをつな」いでいる。だが、単に「つなぐ」というのであれば、1+3=3+1のように前後を入れ替えても、内容的には変化しないはずである。ところが、AとBが同じ内容の日本語には見えない、ということは、「しかし」の働きが、単に「つなぐ」というだけではないことを意味するだろう。
 自分が言われるとしたら、という質問で、ほとんどの生徒がAに手を挙げるということは、Aの方が「全く勉強が出来ない」よりも「とてもいい人だ」がよりいっそう聞き手に伝わるからである。人間は誰しもほめられるのが大好き。そう、「しかし」の働きは、後を強調するということなのだ。文章を読む上でこれはとても便利な知識であり、大切なことなのではないだろうか?それに比べれば、内容的に逆のものを結び付けるという働きなど些細であり、「しかし」の機能として意識する必要などないほどのものである。
 文章は前から後に向かってスムーズに流れるのが基本である。その基本に逆らって、あえて矛盾・対立する要素を持ち出すためにはエネルギーが必要だ。それだけのエネルギーを費やしてでもそれらを持ち出そうとし、その前触れとして「しかし」を使う。そのエネルギーこそが、強調の作用を生む。それが「逆接」の働きであり、論理だ。
 少なくとも、私は「逆接の働きは後を強調することだ」とばかり教えている。それがニッコクやコージエンに書いていないから間違いだと言うのなら、平居は国語教師失格。「やっぱりな・・・」でおしまい。ちゃんちゃん。