スポーツ大好きで大嫌い

 私は見た目ほど(?)運動神経が悪くない。そのおかげもあって、スポーツは見るのもするのも基本的に大好きである。汗を流すのは気持ちがいいし、ひとつの目標に向かって頭と体を使うのは楽しい。しかし、同時に、大嫌いでもある。人々のスポーツに対する熱狂を見た時に、大きな不愉快と不安とを感じてしまうのだ。
 スポーツは勝つか負けるか、結果がはっきりと見える。その勝負は努力に基づいた実力で決まるとは言っても、運の要素も大きい。次のプレーによって試合の流れや勝負がどうなるか、そのわくわく感は博打的でもある。これらの結果として、スポーツは人を狂気に追い込み、真偽や価値を見誤らせ、商業主義に利用される。そして、現在の世の中はあまりにもスポーツの価値が肥大しすぎだ。楽しいや便利に無批判に飛びつく、つまりは哲学的にものを考えることの出来ない人が多い社会において、スポーツは危険きわまりない劇薬である。
 スポーツのそれらの問題点は、学校の部活動にもよく表れている。教科学習を出発点とする学校において、課外活動である部活は「末」だったはずだが、本末転倒を起こそうと作用する力は非常に大きい。
 日本大学アメフト部の悪質反則問題が大きな問題となっている。それだって、少々極端な例ではあるけれども、スポーツの勝利至上主義が行き着く先だ。監督の指示があったかどうかが問題になっているが、映像を見る限り、繰り返される反則を指導者が問題にしている風はなく、だとすれば、あの反則に対して肯定的な立場を取っていたことに疑いはないように思われる。
 指導者はルールに基づく厳しさを求めたが、選手の受け取り方との間に乖離があった、と日大は説明している。仮にそれが本当だったとして、ここには国会で問題になっている「忖度」と同じ作用が働いているのではあるまいか?
 監督が絶対的な権限を持ち、試合に出られるかどうかは監督次第、すると卒業後に部活実績で就職できるかどうかも監督次第、そんな絶対的な力関係の中で選手が監督の思いを「忖度」するようになるのは当然である。「忖度」への意志は権力の大きさに比例することに気付かされる。それが、予防は過剰になるという法則と相乗効果を起こす中で、「大人」と言われる年齢に達している選手たちが、監督の考え方や姿勢に疑問を持ったり批判をしたりする力を失っているのは恐ろしいことである。
 そうだ。私がスポーツ大嫌いなのは、スポーツ界で活躍している人に極めて敏感な縦の序列への意識を感じるからである。一見爽やかで屈強なスポーツマンでありながら、上位の人間に対しては卑屈きわまりないという例を、今までの人生でたくさん見てきたような気がする。体育の先生に組合員が少ない、というのもおそらく事実であり、同じ問題だ。
 5月10日に、国会で柳瀬唯夫元首相秘書官の参考人質疑が行われた。翌日の毎日新聞は、社会面に「柳瀬氏とは」という囲み記事を載せ、「権威と秩序 運動部で学ぶ」と見出しを付けている。それによれば、柳瀬氏は1997年3月に旧通産省の広報誌『通産ジャーナル』の書評コーナーで心理学者・林道義『父性の復権』(中公新書)を取り上げた。そこで氏は、自らの中学時代の運動部体験に触れ、次のように書いているという。

「有無を言わさず一方的に指示を出す『先輩』に、はじめて権威と秩序を認識させられた。当時はずいぶん無茶苦茶な話だ、と思っていたが、いまにして思うと自分には大きな修得であったし、転換点であった。」

 記者によれば、柳瀬氏はそのような部活動の体験を肯定的にとらえていて、「対話と批判」が尊重される現代をこそ批判しているらしい。世の中を動かす人間にとって部活動やスポーツ界が好都合な、歓迎すべき存在であり、学校の部活動に関する指針でも、活動時間の制限といった上っ面だけの改革でお茶を濁そうとする理由がよく分かるではないか。
 日大アメフト部の反則問題は、極端であり例外的な事件だと思う。だが、間違いなく普遍とつながるものがある。冷静に、スポーツとは何か、どうあるべきかと哲学するきっかけにしなければならない。そうでなければ、結局、日大もしくはその監督だけを悪者にして一件落着となってしまうだろう。