加藤文太郎の足跡

 先日、船形山の麓で昔の小学校の校庭がイノシシに掘り返されて大変なことになっている、という話を書いた(→こちら)。そうしたところ、19日の河北新報に、3〜4月の2ヶ月間に石巻市内で5件のイノシシ目撃情報があった、という記事が出た。「イノシシ東へ猛進」「生息域拡大止まず・・・石巻で目撃」などと、大きな見出しがついている。市と県は、猟友会を交えて対応を協議し、駆除に乗り出すという。なーに、いくら頑張って石巻で駆除に成功したとしたって、イノシシが生息域を拡大している原因は何も解決しないのだから、いろいろな歪みが後から後から表面化してくるさ、と、例によって私は冷めた目で見ている。
 話は変わる。
 3月に、念願かなって六甲山地の全山縦走をすることが出来た話は既に書いた(→こちら)。そのために神戸に行ったついでに、JR和田岬線を乗りに行った話も書いた(→こちら)。実はその時、加藤文太郎という昭和初期に活躍した登山家のことが絶えず念頭にあった。
 加藤文太郎(1905〜1936年)とは、新田次郎孤高の人』の主人公と言った方が分かりやすい。和田岬にあった三菱内燃機製作所(現三菱重工神戸造船所)で設計技師として仕事をする一方、一人で山に登った。彼自身の出身地でもあった兵庫県内と北アルプスを中心に、ほとんど全て単独で、驚異的な山行記録を積み重ねた。歩くスピードの速さでも知られる。まるで走るように歩いたらしい。
 神戸に出かける直前にバタバタしていたこともあって、さしたる予習も出来なかったのだが、5月の連休に実家に戻った時に、書架に突っ込んであった『孤高の人』を持ち帰り、加藤文太郎の遺文集『単独行』(我が家にあるのは1958年刊の朋文堂版)も合わせて、本当に久しぶりで読み直してみた。加藤についての資料は、『単独行』以外にはほとんど残されていないはずだ。ごく限られた情報を膨らませて、陰影に富んだドラマを組み立てて行く作家の力は偉大である。それはさておき・・・
 Wikipediaには「現在ではポピュラーとなった、六甲全山縦走を始めたのが、加藤文太郎である」とあるが、『単独行』巻末の後記(遠山豊三郎筆)では「当時にあっては珍しい塩屋から宝塚まで完全縦走を成し遂げた」と書かれている。全山縦走の創始者が加藤であるかどうかは確かめられない。神戸市街の裏山だから、道は元々たくさんついていたのだろうが、それを一貫した縦走路として認識し、最初期に踏破したのが加藤であることは間違いないようだ。和田岬を早朝に出発して宝塚に縦走し、そのままそこから歩いて和田岬に戻ったという逸話は特に有名である。ちなみにそのコースの総距離は100㎞となる。
 『孤高の人』には、加藤のお気に入りの場所として高取山が何度か登場する。六甲山の縦走コースを歩いた後に読むと、とても身近に感じられ、往事がしのばれる。
 新田次郎の長編『孤高の人』『銀嶺の人』『栄光の岸壁』は、人がなぜ山に登るのかを追求した三部作と言われる。いずれも実在の人物をモデルとした山岳小説だ。私にとって最も愛着があるのは『栄光の岸壁』であるが、いずれも小学校時代以来の愛読書である。しかし、今回あらためて『孤高の人』を読んでみて、あまりにも救いのない悲劇であると胸を衝かれた。おそらく、昔は、その悲劇的結末よりも、超人的な山行歴の方に意識が向いていたのだろう。
 単独行をもっぱらとした加藤が、初めて他人とパーティーを組んで山に行った結果、遭難死する。1月、槍ヶ岳の北鎌尾根でのことである。後には結婚して1年にしかならない若い妻と、生まれて2ヶ月にもならない娘とが残された。『孤高の人』はそこで終わる。一方、『銀嶺の人』も『栄光の岸壁』も主人公は死なない。それどころか、前者はグランドジョラス北壁の、後者はマッターホルン北壁の初登攀に成功した栄光の場面で終わる。
 加藤が遭難死した後の若い母娘は、その後どのような人生を送ったのだろう?『孤高の人』を読み終えると、人の夫であり親である身として、そのことがいたたまれないような「哀れ」をもって迫ってくる。自分自身の生活環境の変化によって、作品の印象はがらりと変わるのだ。
 『銀嶺の人』や『栄光の岸壁』では主人公が偽名で書かれているのに、このような暗い結末をもつ小説が、主人公を実名にして書かれたのは不思議である。
 加藤文太郎の生地・兵庫県浜坂町(現・新温泉町浜坂)の澄風荘という旅館のホームページには、「加藤文太郎のこと」といういささかマニアックな、16回にも及ぶ連載がアップされている。その第15回によれば、加藤文太郎を実名にするよう作家に強く求めたのは、他ならぬ花子夫人だった。その意図は書かれていない。しかし、ご本人を直接知るらしい主人が、「いかなる状況であろうと、彼女は加藤文太郎の妻、加藤花子のままで生涯を送られたと、わたしは堅く思っております」と書くのを見ると、自身が加藤文太郎の妻であり、加藤文太郎加藤文太郎以外ではあり得ないというある種の誇りが、新田次郎にそのような要求を突き付けることになったのだろうと思われる。
 昔、4年半あまり兵庫県民であったにも関わらず、居所の都合もあって、兵庫県庁がどこにあるかすら知らなかった私である。日本海側には行ったことがない。六甲山の縦走路から外れた山々や、加藤の故郷である浜坂などにも行ってみたくなってきた。