部活動の制限 本来の意義考え解決を(河北新報持論時論)

 今朝の河北新報「持論時論」欄にに、拙文が載ったので紹介しておく。4月10日、11日に書いた「急激な変化は『吉』と出るか?」という本ブログ記事の内容を圧縮したようなものだが、投稿のいきさつは後回しにし、まずは、掲載された拙論を紹介しておく。新聞社が付けたタイトル(見出し)が、「部活動の制限 本来の意義考え解決を」である。可もなく不可もなし、といったところであろう。


「中学・高校の運動部活動を厳しく制限するスポーツ庁の指針を巡り、戸惑いが広がっていると4日の本紙で報じられた。私もこの指針には問題が大きいと感じている。
 そもそも、なぜ部活動が「過熱」するのか?宮城教育大の神谷拓先生によれば、対外試合の増加と広域化、就職や進学に当たっての評価、教員の採用や勤務評価での考慮などが、オリンピックで勝てる選手を生むという国策や競技団体の思惑と絡み合いながら進められた結果である。だとすれば、根底の問題を放置したままで活動時間という末端にだけ制限を加えるのは、無理のある解決策だ。
 部活動時間についてにわかに強力な指導が入った背景としては、過熱対策よりも教員の多忙解消という側面が大きいだろう。確かに教員の多忙解消は急務だ。だが、その多忙は部活動に関して言えば、生徒・保護者の要求とともに、事故が起きた時に責任が厳しく問われるため、教員が常に活動に立ち会うことが求められることによっているのではないだろうか?
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 過熱も解消も、部活動の問題は全て大人の事情によっているように見える。教員の中には部活指導をするために教員になったという人が一定数いるようだ。学校宣伝への利用は露骨である。指導がひとえに自分の楽しみや評価のための場合もあるだろう。大人による部活動は「生徒のため」という大義名分を掲げつつ、生徒の自立を妨げ、管理的体質をつくる契機として機能する場合が少なくない。
 だが、指針にもある通り、部活動は本来、生徒たちの自主的・自発的なものであるはずだ。今、文科省教育委員会がすべきことは、部活動をそのような本来の姿に戻していくことではないだろうか?
 対外試合の制限は必要だ。その増加を可能にし、授業と部活動の本末転倒を引き起こす「公認欠席」は認めるべきでない。部活動を推薦材料にすることの是非については検討を始める必要がある。
 だが、何より必要なのは、学校が部活動によって生じた事故の責任を問われないようにすることだ。責任と管理とは表裏一体である。
 教育委員会は部活動が生徒による自主的な任意の活動であることを明確にし、学校は場所を貸すが部活指導は教員の職務ではなく、せいぜい運営に関する相談に乗るだけ、施設の不備に起因しない限り事故に責任は持たない、と世間に向かって宣言すべきなのだ。
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 子どもが自分たちのニーズに基づき、自立的にのびのびと部活動に取り組む。大人が管理するほどうまく活動できなくても、学ぶことは大きいはずだ。そんな部活動なら「過熱」も構わない。青春の一時期にのめり込めるものがあるのはいいことではないか。それで勉強がおろそかになれば、部活動を制限するのではなく、勉強がおろそかになっていることを問題にし、解決策を考えさせればいい。
 とにかく、大切なのは大人が子どもを利用しないことであり、学校が何もかも丸抱えにしないことである。残念ながら、今回の指針は逆の方向を向いている。」


 4日の河北新報記事社会面に「中高の部活動指針 スポーツの現場困惑」という大きな見出しのついた記事が出た。見出しも記事も大きい割に大切なことに触れていない。単に「今までどおり練習が出来なくて困った!」というだけの記事である。今回の指針をこういうレベルで受け止めるだけというのはまずいぞ、と思い、私見をまとめて河北新報社に原案を送ったのは、翌5月5日のことである。
 そのころは、日大アメフト部の問題はまだ発生していなかった。翌6日にその事件が起こり、15日頃から急激に社会問題化した。偶然ではあるが、その事件は、「大人による部活動は(中略)生徒の自立を妨げ、管理的体質をつくる契機として機能する場合が少なくない」という拙論の内容に重なった。
 当初は、偽名で出せないかと考えていた。拙論はスポーツ庁の指針を問題としているが、宮城県はそれに沿った内容の指針を既に策定し、現場に下ろしているので、県の指針に対する批判でもある。よって、県立高校職員である私がこのような投稿をしていいかどうか、コンプライアンスとの関係で多少悩んだからである。新聞社からは、内容的にはぜひ掲載したいが実名で、との回答があった。
 そこで、県でそれなりの地位にある知り合いに原稿を見せ、内々に意見を聞いたところ、全然問題あるまいと言われた。県が問題視するよりは、職場で冷たい視線を浴びたり、競技団体から恨まれたりする可能性の方が高いかも知れない、と思った。だがやはり、指針の問題が、理念(哲学)との整合性ではなく、今までのやり方との齟齬や、「やりたい・やりたくない」という感情論だけで語られる状況はまずいという思いが勝った。多少格好を付けていえば、義侠心あるいは義憤に近い心情である。私は実名による掲載を了承した。
 投稿規定に「1300字程度」とあったので、当初の原稿は1309字であった。ところが、掲載までに100字も削られた。「15字×81行」なのだそうだ。段落頭の一字下げを考慮すると、最大で1200字ではないか!だったら、最初からそう書いてくれればいいのに・・・。おかげで、主に表現に関して不本意になったところが多々ある。元々の文章との異同を紹介するのは煩瑣なのでしない。元々の原稿でも字数の都合で、本当は書いておきたいが書けない、ということがあった。特に重要な、大人による技術指導はどうあるべきか、という問題については、明日にでもまた触れることにしたい。