大人による技術指導

 戦々恐々学校に行ったら、1日でわずか数人から「読んだよ」みたいなことを言われただけだった。ふと思い出した。そういえば、最近は教員も新聞なんて読まないんだっけ・・・。案外、部活動よりもそちらの方が深刻な問題だったりして。
 それはともかく、予告していた「続き」である。部活動において大人による技術指導はどうあるべきか?
 私は最近、何事につけても子どもに対する大人の過干渉・過剰サービスが気になり、それらを苦々しく思いながら見ている。部活動についても、子どもたちに勝手にやらせればいいのに、どうして親や顧問が車で試合の送迎までしてやらなければいけないのか?バカじゃなかろうか?と思っている。しかし、実は、大人による技術指導まで禁止すべきだと考えているわけではない。何事においても、レベルの高いことをしようと思えば「指導」は必要なのである。
 「子どもたち自身による部活動」と「大人による技術指導」の両立を可能にするのは、「子どもたちの依頼による大人による技術指導」である。指導が出来る大人に、週に何回何時間とお願いをする(この時間内に関して言えば、指導者である大人が子どもの安全に責任を持たないわけにはいかない)。内容は技術面に限り、主導権はあくまでも子どもにあるべきだ。しかし、ああしろ、こうしろと言っているうちに、命令の範囲が「技術」を逸脱する可能性は大いにあり得る。その場合、限度としてわきまえるべき絶対ラインは「人事」である、と私は思っている。
 「人事」とは、主に試合の出場メンバー決定、更には主将の選出、である。安倍政権だって、暴走の出発点に内閣法制局長官の更迭、内閣人事局の創設といったものがあったのだし、日大アメフト部事件だって、試合に出す出さないという問題があってこそ起こった。それらの例を見ていてつくづく思うのは、人事(人の処遇)というものは、あらゆる意味で人を意のままに操るための根本だ、ということだ。
 しかしながら、子どもたち同士で出場メンバーを決めるのは、なかなかに難しい。大人だって、同じ立場の人間同士だと利害の調整に関わる結論はなかなか出せないものである。最後はじゃんけんという情けない方法に頼ることにもなりかねない。図々しい人間が得をする、という現象も起こりがちである。
 適切なメンバー決定をするためには、部員が対等・平等な関係で議論をするのではなく、自分たちでリーダーを選び、ある程度の権限を委任する必要が出てくるだろう。権力発生のオリジナルな姿だ。そのプロセスを体験することは、民主的な人間形成の上では重要なことで、大人が絶対者となって指図をするのでは分からない社会の仕組みのようなものを学ぶ重要な機会になるはずだ。
 そもそも、民主主義とは面倒なものである。だから、部活動で私が言うような自治を目指そうとした場合、生徒の側が、大人の監督がいて指示してくれた方が楽でいい、と言い出す可能性は非常に高い。しかし、楽とか簡単とか便利とかは常に落とし穴である。楽な方がいい、便利だからいい、などというのは間違い。そういう価値観に飛びつくと、人間は本当に大切なものを見失い、自分の内側に眠っている能力を引き出せないまま錆び付かせてしまうのだ。
 もっとも、楽とか簡単とか便利だというのが無条件で「善」だからこそ、ほとんど全ての高校生がスマホなんかを持つことになるのである。私の意見なんて、ただの奇人変人による妄言でおしまい。お粗末様でした。