命の循環に入る

 どんなきっかけだったか憶えていない。授業の時、生徒が「平居先生はどんな死に方がしたいですか?」と質問をしたので、「コンクリートブロックか何かを体に結び付けて、海にドボンだな。」と答えた。以下、その続きである。

「え?自殺ですか?」
「いやいや、自殺という表現はふさわしくない。いよいよ明日にでも死にそうだという状態や、頭がおかしくなって、自分独自の思考が出来なくなったらそうしたい、ということさ。もちろん、そんな状態の時に一人ボートで沖に漕ぎ出して、ドボンなんて出来っこないから、結局そんなことは出来ないのさ。」
「なんでそんな変なこと考えるんですか?」(生徒笑)
「お魚の餌になりたいんだよ。今は日々他の生き物から命をもらって生きているわけだから、生きているまま食い殺されたいとは思わないけど、死んだ後くらい他の命を維持するために役に立ちたいわけさ。命はそうして循環しているものなんじゃないかな?死んだ後にまで貴重な石油を燃やし、ゴミである二酸化炭素を大量に排出して地球を汚すなんてナンセンスだよ。知っているだろ?私の合い言葉は、“資源と環境を後の世代に”だしね。あんたたち、人間の死体を燃やすのにどれくらい石油を使うか知ってる?」
「そんなこと知ってるわけないじゃないですか。」
東日本大震災の時に聞いた話で、それが本当かどうか確かめられていないんだけど、55リットルだってよ。この世に生まれてくる人は必ず死ぬわけだから、生まれてくる人数×55リットルの石油を燃やすなんて、永久に続くわけもなし、私には狂っているとしか思えないね。」
「だけど、先生が言うみたいに海にドボンが実際に出来ないとしたら、結局そうなるじゃないですか。」
「いや、私が死んだ後で誰かが海に捨ててくれたっていいんだし、それがダメなら土葬でいいよ。土の中でバクテリアの餌になり、それが土を作って植物を育て、また別の生き物の命になるからね。大切なのはそんな命の循環の中に入ることさ。土葬なら少し現実的だ。」
「やっぱり先生って変ですね。普通の人なら土葬なんて嫌だ、火葬にしてくれ、って言いますよ。」(生徒笑)
「どうしてそんなこと言うんだろうねぇ。理由説明できる?単にみんながそうしているから、とか、そうすることになっているからっていうだけなんじゃないのかな?みんながそうしてるからっていう考え方、けっこう落とし穴だと思うよ。私はいつもそう思っている。スマホだって、みんなが持っているからっていう理由で持っている人、少なくないんじゃないかな?だけど、それが“正しい”選択だっていう保証はないよね。あなたは、今の私の話を聞いて、何かの餌になることと石油を燃やし二酸化炭素を出して灰にすることと、どちらが自然界の理に適っているかを、人のやっていること、言っていることに振り回されず、じっくり考えればいいんだよ。」
「分かりました。やっぱり先生は変な人です。」(生徒一同大笑い)
〜幕〜