続・未来世代への責任

 西日本の集中豪雨による被災地は本当に大変だ。石巻のように今のところ(=あくまでも「今のところ」)最高気温がなかなか30℃を超えない気候のよい所で、安穏としているのが申し訳ない。遠隔地から駆けつけ、汗みずくになって復旧作業に当たっているボランティアの姿をテレビで見ては、偉いなぁ、と家族で言っている。
 しかし、各地から駆けつけたボランティアの車で大変な渋滞が起こっているという報道に接すると、果たしてボランティアが駆けつけるのはいいことなのかな?との疑問が兆してくる。東日本大震災の時でも、西日本から1台の車を1人で運転して東北までやって来た人の姿をたくさん目にした。鉄道も高速バスも止まっているのだから仕方がない。車はテント代わりにもなる。
 だが、それが温暖化の元凶だというのも確かなのだ。温暖化で大規模な豪雨災害が起きる→復旧のためにボランティアが駆けつけ、大量の重機が動く→温暖化はますます加速する。もちろん、被災地の復旧は急がなければならないし、そこで排出される二酸化炭素の量など、世界全体での排出量に比べれれば量のうちにはいらないほどわずかなものかも知れない。それでも私には違和感がある。
 前回のラボにおける山本憲一先生のお話(→こちら)によれば、世界で排出される二酸化炭素の5分の1から4分の1が自動車によるものだそうである。私の勝手な想像だが、飛行機を入れると3分の1にもなるかもしれない。これは驚くべき数字である。そんなものの存在が許されていいわけがない。
 先日、岩井克人の「未来世代への責任」という文章に触れた(→こちら)。岩井氏は、未来世代に降りかかるであろう温暖化に思いを馳せて今を生きるという「倫理」が求められている、と書く。経済学者は、人間にそのような「倫理」が期待できないからこそ、それをカバーするものとして経済学の論理を築いてきたのだが、ことここに至って、そのやり方は破綻した。「倫理」の欠如を経済理論によって糊塗することは不可能なのだ。たとえ不可能に思われても、「倫理」に期待する以外に打つ手がない。氏が一度は否定した「倫理」に最後になって立ち返るのは、そのような事情によるだろう。
 人間が未来世代に想像力を馳せ、彼らの生きる環境を守ろうとしないのは、目先の利益を追うことに汲々とするからである。人間は、温暖化が自分の生涯のうちに破滅的な被害をもたらすと見えてきてもなお、その危機を直視し、「豊かさ」を犠牲にして対策を取ることができない。
 だが、豪雨の被災地に続く車の列、我が家から見える東日本大震災関連の巨大土木工事などを見ていて、ふと逆のことを思った。つまり、現在の経済活動が未来の環境を破壊することを自覚できないのと全く同様に、現在、「豊かさ」を手放しても、それによって温暖化を回避できるという実感を持てない。だから人間は、何一つ(←と言っていいですよね)手を打てずにいるのだ。
 みんなが一斉に自家用車を手放すことで、明日から気温が2℃下がる、もう「記録的」な豪雨は起こらない、というのであれば、人間は二酸化炭素削減の荒療治に取り組めるかも知れない。だが、残念ながら、温暖化は200年以上かけて進行してきた。しかも、今対策を取ったとしても、それは二酸化炭素の排出量を一気に産業革命以前に戻すことではあり得ないから、時計の針を巻き戻すのには200年以上、場合によっては300年も400年もかかる。加えて、いまだに地球上では人口爆発が起こっているので、そのことによる自然増は止めようがない。いくら自動車と飛行機の放棄といった現実的でないほど厳しい対策を取ったとしても、その効果がなんとなく感じられるようになるのは、早くても数世代の後ということになる。人間にはこの時間的スケールが耐えられない。
 被害への危機感よりも、対策の徒労感の方が大きい?結局、実質的には同じことで、温暖化の危機レベルも回避の困難さも同じなのだけれど・・・。