プラネタリー・バウンダリー

 朝から海がクリアーでない。再び湿度が80%を超えたな、と思う。7時に近くの空き地に行く。昨晩が町内会の盆踊りだったので、後片付けに行ったのだ。盆踊りも寒かった。私は長袖のカッターシャツの上に、登山用レインウェアの上を羽織り、バーベキューコンロの前で炭火に当たっていた。
 180人もの人が集まり、私の所属している町内会としてはなかなかの盛会。年に一度、こうして隣近所の人たちが集まり、声を交わす機会があるというのは貴重なことである。が、どこもかしこも高齢化の波は著しい。特に準備や後片付けの時に集まった人たちを見ていると、このイベント、あと10年維持できるかな?と心細くなる。
 「楽しい盆踊り」を見ていて私がつらいのは、そこで出される大量のゴミである。少しでもゴミを出さないように、などという気持ちはみじんも感じられない。何もかもが使い捨て。しかも、もう買っちゃったんだから全部使っちゃおうよ、と、わざわざ使わなくてもいいものまで消費しようとする。
 今日の河北新報「持論時論」欄に、岩手県岩泉町在住の東京農大客員教授・中洞正という人の投稿が載った。見出しは「相次ぐ異常気象 貪欲な経済活動再考を」というものだ。これを見れば内容はおよそ分かると思う。以前から私も言っているとおりのことである(→参考記事)。結びの部分だけ引いておく。
「欲を少なくして足るを知り、浪費を戒める道徳的規範がかつての日本にはあった。これらの規範を無視し、貪欲な経済活動によって地球を破壊し、大災害が毎年のように発生しても反省することができない人類は、万物の霊長と呼ぶにふさわしいのだろうか。」
 古来、ヨーロッパ人が自然と対峙し、それを克服しようとしたのに対して、日本人には自然と共生する思想があった、とはよく言われることである。今の日本人を見ていて、私にはそれがいわばDNAレベルでの日本人の国民性ではないことがはっきり分かる。ただ単に、技術と資源がなかっただけである。その日本人が文明開化のおかげでひとたび技術というものを手に入れるや、あさましき自然の破壊者に姿を変える。DNAレベルでの国民性なら、そのようなことは絶対に起こるわけがない。
 温暖化と言えば、夏休み中に目にした新聞記事で、最もインパクトが大きかったのは、8月2日朝日新聞「オピニオン&フォーラム」欄に載ったストックホルム・レリジエンス・センター所長・ヨハン・ロックストローム氏へのインタビュー記事だ。氏は「プラネタリー・バウンダリー」の研究を主導した。「プラネタリー・バウンダリー」とは、「地球の限界」という意味である。自然環境というのは、ある範囲までなら、努力によって改善が可能だが、限界を超えてしまうと、その後いくら二酸化炭素を減らすなどの対策を取っても状況が回復しなくなる、その限界点を見極める研究である。限界値は産業革命以前+1.5℃で、もう目前に迫っている。
 「回復力があるうちは、温室効果ガスを生物圏内にとどめておくことができますが、弱ったところにエルニーニョや熱波など、ちょっとした一撃が加えられて転換点を超えれば、地球は別の状態に変わり、元には戻れなくなります。」つまり、限界を超えると、自然は大暴走を始めて収拾が付かなくなる、と言うのだ。
「地球の回復力には亀裂が生じています。それを示す出来事が最近ありました。2015年と16年、増え続けてきた世界の二酸化炭素排出に歯止めがかかりました。大気中の二酸化炭素濃度上昇にもブレーキがかかると思ったら急上昇したのです。人間が二酸化炭素排出を削減したのに、森林や海などの自然生態系がこれまでのように吸収しなかったのです。森林火災や干ばつが増えて二酸化炭素吸収量が減るエルニーニョの年ではありましたが、回復力喪失のサインでしょう。自然も潜在的二酸化炭素排出源になり得るのです。」
 恐ろしいことだと思う。だが、私には自然なことと納得できる。先日私が書いた、自然界の加速理論(→こちら)と通じるものがあるのだ。 
 冒頭のゴミの話もそうだが、今自分たちがやっていることの全てが、地球環境の悪化の遠因となり、西日本豪雨や猛暑の記録にも結びついている、という意識はゼロである。上から下への「ご指導」をあまりいいとは思わないが、学校教育、その他社会的な啓蒙活動、批判運動は必要である。
 だが、政治家や教育行政への期待は難しい。今月に入ってからも、宮城県では、仙台空港の離着陸時間延長への動きがあったり、猛暑が景気を押し上げているという歓迎調の論評が見られたりした。今夏(7月?)のペットボトルの消費量が57億本に達した、とかいう話をどこかで聞いた。背筋の凍るような数字である。いや、数字が恐ろしいのではない。そのような消費をものともしない人間の感覚が恐ろしいのである。
 そしてその意識が政治家を選んでいるわけだから、なるほど、政治家に期待はできず、悪循環は加速するわけだ。気づいた人間から発言し、徹底した節約生活を実行しなければ・・・。しょっちゅう同じことを書いているが、知行合一。「あ、分かった分かった、また平居が同じことを言っているよ」というのと、「分かった」は断じて同じことではない。