遠い南極(再)・・・ラボ第13回

 昨晩は、ラボ・トーク・セッション(ラボ)の第13回であった。今回の講師は、第54次と第58次の南極越冬隊に医師として参加した大江洋文氏。第58次隊で越冬していた昨年から今年にかけて、河北新報で1ヶ月に約2回、合計20回に渡って「南極見聞録 こちら越冬隊 Dr,大江」を連載していたから、そう書けば、「ああ、あの人!?」と分かってくださる方もいるのではないかと思う。演題は「不便な暮らしを楽しむ 昭和基地での越冬生活」。
 私は「仙台一高山の会」で、いや、私が仙台一高山岳部の顧問だった時に、コーチとしてずいぶん助けていただいた方なので、その縁でお願いすることが出来た。
 「専門家」のお話をきっかけに交流する、を趣旨としているラボとして、果たして大江医師が南極に関して「専門家」に当たるのかどうかは悩ましいところだったが、夏の暑い時に一番寒い場所の話というのもいいかも、とか、南極に2年もいれば、少なくとも南極で「暮らす」ということについては、十分に「専門家」だ、と考えた。
 「専門家」とは言っても、南極で「暮らす」ことの専門家なので、お話は平易でビジュアル系、敷居を高いと感じることなく多くの人にお楽しみいただけるのではないか、申し込みが殺到したらどうしよう、夕方早い時間帯に、高校生向けの第1部でも設定しようか、などと言っていたのだが、幸か不幸か杞憂であった。
 なぜか、申し込みがなかなか入らない。何かの手違いで、某新聞に申込先と指定してあった私の自宅電話番号が間違って掲載された、という問題もあった。開催の1週間前になっても、15人くらいという寂しい状況であった。せっかく来ていただく講師にも申し訳ないし、営利ではないとは言え、経費がかかる都合で赤字も困るし・・・と、4日間の入院生活(→こちら)の前後に、せっせと営業活動をして、なんとか最低限のラインと考えていた20人の参加が見込めるようになったところで、前日となった。
 ところが、ここから翌日(開催当日)にかけて、もう来ないだろうと思っていた予約メールが3件入った。加えて、会場に飛び入りでやって来た方が何人かいた。毎回、当日連絡なくキャンセルという人がどうしても出てしまうのと人情との関係から、いくら25名の定員を満たしたからと言って、もうダメです、とはなかなか言えないものである。結局、主催者と講師を入れると30名という大規模なラボになった。人数もともかく、新顔と教育関係者以外の人が多かったのが、ラボとしてはとてもよかった。知識が知識人の独占物になるのはよくない。素人による無邪気な質問の怖さと価値、という問題もある。
 私自身は、大江先生が第54次から戻った時にお話を聞いていたし、この間、いろいろと南極情報に接する機会も多かったので、新鮮な話があったわけではないが、とにかく分かりやすく、プロ顔負けの写真をたくさん使ってお話ししてくださるので、参会者には好評だったようだ。面白かったのは、大江先生が何かの手術をしている写真。もちろん深刻な怪我・病気ではなく、大きな手術でもないからだろうが、女装(看護婦)をした男の隊員が、手術台の脇で患者の手を握りしめている、というものだ。連れて行った私の娘も、笑い転げていた。何事にもユーモアは大切。
 ところで、今回は、坂田隆先生と私というお決まりの2人に加え、「国立極地研究所」という名前がチラシの主催者欄に書かれていた。昨年度末、南極観測夏隊への教員派遣に応募して落選した(→その時の話)、という情けない過去を持つ私にとって、自分の名前と並べて「国立極地研究所」という名前を書くのは、甚だ胸中複雑なものがあった。ただ、大江先生から、チラシの主催者欄に名前を入れる程度の書類で申請可能、それでパンフレットや氷をもらい、装備類を貸してもらうことが出来る、極地研も広報活動には力を入れている、などと言われたものだから、それでは、極地研にご登場いただこう、ということに決めた。
 ところが、数日前に、大江先生から、「パンフレットや氷も既に届いたと思いますが・・・」というメールを受け取り、「え?」と思って「未着です」と返信したところから、トラブルが発覚した。私は極地研の名前入りのチラシを大江先生に送れば、大江先生から極地研に申請が為されると勝手に思い込み、大江先生は大江先生で、主催者である坂田・平居が申請するのが当たり前と思い込んでいた。つまり、意思疎通の行き違いがあって、極地研には誰からも申請が為されていなかったのである。
 なんだか、私と極地研=南極との縁のなさを象徴しているようで、哀しい気持ちになったのであった。やっぱり悔しい〜っ!