中国音楽研究会のこと(2)

 承前。以下、2014年10月執筆記事(本文中の時間の起点がこの時であることに注意)。


 まずは、原史料として、中国音楽研究会編集部が発行したガリ版刷りの手作り歌集『新中國歌集』第1号(1953年1月25日発行)巻末に印刷された、「中國音楽研究会成立経過及意義」(全文)を引用しておこう。


 今迄中国の音楽はあまり知られていませんでした。職場で、学校で中國の歌を唱いたいという声が高かったが、具体的に之を紹介する團体がなかったのでそのまま放置されていました。1952年10月1日新中國成立三周年記念祝賀会を祝う為に、同好の中國留学生と日本青年学生及職場の方々が集って合唱体を作りました。人数も少なく技術的にも未熟でしたがその後、坂井照子先生や薄一彬先生のご協力を得て全会員の努力によりどうやら会らしくなりました。其後昨年の10月27日に魯迅逝世16周年記念祭に出演し、11月には中央大学を始め各大学の大学祭に出演、12月21日には中央合唱団創立四周年記念音楽会に参加し非常な好評を得ました。今後も皆様と共に中國の歌を唱い日本全國に廣める様努力したいと思って居ります。中國の歌を唱いたい方は誰でも(中國語を知らなくても)本会に加入される事を歡迎します。(現在会員は五十四名居ります。)
 練習場所:千代田区西神田2ノ2 日中友好協会隣リ 
      留日中國学生同学会(省線水道橋下車五分)
 時間:毎週土旺午後六時ヨリ1時間半
 会費:1ヶ月 20円 


 これを読めば明々白々。中国音楽研究会(以下、中音研と略)は、決して学術団体ではなく、中国の歌を唱う合唱サークルなのであった。小澤さんによれば、結成は1952年11月1日のことである。上にある「会員数54名」は、ほぼ最多の時の数であって、通常活動していたのは20名前後だったらしい。
 だが、中音研には更に前史がある。そもそも、小澤さんが、なぜ中音研を作ろうと思ったかというと、当時、日本の「歌声運動」の中心にあったのは、関鑑子(せきあきこ)を指導者とする中央合唱団であったが、ロシア音楽一辺倒で、中国の音楽には目を向けようとしなかったからである。日本には、在日中国人や中国人留学生がたくさんおり、大学には中国研究会というものが続々と誕生していた。おそらくは、新しく生まれた中華人民共和国共産党中国)に対する共感と期待とがあった時代なのだろう。小澤さんは、それら現代中国に関心を持つ人々に対して、新しい中国の歌を唱おうと呼び掛けた。そうしてできたのが、上の文章に「合唱体」として登場する中音研の前身である。「合唱体」が中音研なのではない。
 中音研の会員であった故・玉林由光氏が内部用に作った『「中国音楽研究会」小史』(全78頁。執筆時期未詳。以下『小史』と略)によれば、発足当初は「日中うたう会」という名称で、会員は10名であった。これが、上の「合唱体」に当たるが、その発足がいつかは分からない。そして、その後、様々な場所で唱い、好評を得ることで、「新中国の音楽を学び歌い積極的に広めるという目的を持った組織に発展させるため、名称を『中国音楽研究会』と改め」たのである。
 ところで、この合唱団を立ち上げた小澤玲子さんは、なぜ中国の音楽に特に興味を持ち、なぜ合唱団を組織して指導することが可能だったのだろうか。それは、朝日新聞の記者であった父・小澤正元氏が、朝日新聞入社以前から中国と深い関係を持ち、たびたび訪中していたこと、小澤玲子さん自身も1944年から2年間、北京に疎開していたことなどによっている。音楽も中国語もほとんど独学らしいが、もともと豊かな才能の持ち主だったのだろう。ご本人の努力もあって、ピアノ教師もできれば、合唱の指導もできる、歌詞の邦訳も作れるという状態になったようだ。正元氏は、戦後、1949年に日中友好協会を立ち上げ、自ら事務局長に就任した。中国との間に豊かな人脈を持っていた方のようである。小澤玲子さんの他、元長春放送合唱団の指揮者でギタリストの青山梓氏、中国の歌舞団にいたという中村文子氏といった人々も、中音研の指導に携わった。また、歌詞の邦訳には、中国文学者の竹内実氏が協力していた。
 中音研は、自分たちで中国の歌を唱い、人に聴かせるだけではなく、「新中国の音楽を」「積極的に広める」という目的を果たすために、『新中國歌集』を第1集から第7集まで発行するなどの活動も行った。そして、これらの活動を10年ほど続けて、再び名前を改めることになった。そうして生まれたのが、合唱団「燎原」である。
 中音研が燎原に変わったのがいつか、正確には分からない。1961年7月刊の『新中國歌集第7集』は中音研の名前で出され、『小史』の記述は1961年末で終わっている。それから約2年後に当たる1963年11月刊の『中国歌集第1集』が、「合唱団燎原(旧中国音楽研究会)」という名前で出されていることから、その2年弱の間に改名が行われたことは間違いがない。或いは、改名を記念して、歌集の名前も新たにしたと考えれば、改名は1963年であったことになる。元々、暫定的な名称のつもりであったらしい中音研は、「燎原」と名前を変えることで、合唱サークルであることを明瞭にし、名実が一致したと言える。
 ところが、旧来のメンバーには、この改名がなかなか受け入れられなかったようだ。「感情的に」というだけではない。古いメンバーは、中国に対する深い思い入れを持って活動に取り組んできたのに、「燎原」は、それに比べると平凡な合唱団に変わってしまったのである。そこに生じたのは、自分たちが何のために歌を唱うのかという、アイデンティティに関わる本質的な葛藤である。しばらくすると、「中国音楽研究会 合唱団・燎原」と、新旧二つの団体名を併記するようになってしまった。
 毎週練習会を持ち、様々なイベントに出演するという合唱団としての活動が、いつまで続いたのか、これも明瞭ではない。1973年以降、1〜3年に一度というペースで「中音研の集い」という会を持つようになったとのことなので、ほとんど同窓会のような形で集まりはするが、それに合わせる形で日常的な活動は行われなくなったのではないか、と思う。(続く)