「でっかい教師」になれ

 3連休の最初の2日間、組合主催の「秋の教育講座」というのに参加していた。講座そのものは1日だが、とある事情で県外から何人かの人が参加していたので、今日は彼らを被災地に案内するオプショナルツアーの案内人をしていたのである。
 今回のテーマは、宮城の農林水産業。残念ながら、講師として頼みたかった林業の専門家の都合が合わず、「林」抜きとなってしまったが、選りすぐりの2名に講師をお願いできたことから、充実の研修会となった。
 「農」で登場したのは、実は「農」ではなく「畜」だったのだが、加美農業高校の山田陽一先生。演題は「命と向き合う生徒が主役の畜産教育」。先生のお話も素晴らしかったのだが、配られた資料にあった写真に私の目は釘付けになった。それは先生の教え子Nさんが、農業関係の作文コンクールで優秀賞を取って雑誌に掲載された時、そこに添えられたプロが撮ったスナップショットである。Nさんが子豚を抱いている。私は半世紀以上生きているが、豚の笑顔というのを初めて見た(間違いなく子豚は「笑顔」である)。Nさんも子豚をいとおしんでいることがよく分かる優しくていい笑顔だし、子豚も、自分が信頼する大好きなNさんに抱かれて、安心と喜びで笑顔をはじけさせている、という感じなのだ。本物の母子の写真でも、これほど幸福感に満ちたものはなかなかない。
 「水」で登場したのは、水産高校の油谷弘毅先生。演題は「生徒と一緒に考えた!宮城の海産物をより多くの人に食べてもらうために」。前半は水産高校の紹介、後半は宮城県産のホヤをより多くの人にためてもらうための試行錯誤のお話。逆境にめげず、前向きに、アイデアを生み出そうとする姿勢には頭が下がった。が、少しショッキングなこともあった。
 宮城県のホヤの生産量は、既に震災前を大きく上回っているが、消費は低迷している。原発による風評被害で、お得意様であった韓国がいまだに輸入をストップしているからだ。では、なぜ生産するのだろう?私が想像するに、採れたホヤは廃棄するしかなく、実際に廃棄しているのだが、社会的な事情によるものなので、政府は漁業被害を補償している、どうやら、それが満足のいく補償額であるため、漁業者は捨てることを前提に生産量を増やそうとしているようなのだ。この想像が正しいかどうかは知らないが、もし正しいとすれば、なんとかホヤの消費量を増やそうと苦心している人がいる一方で、収入さえ得られれば消費なんてされなくてもかまわない、という漁業者がいることになる。しかも「たくさん」だ。これは驚きだ。私だったら、美味しいと言って食べてくれる人のいることこそがモチベーションになるのであって、収入はその次の話、なのだけれど・・・。
 ところで、この会の参加者は30名弱に止まった。少なくとも50は、と思って、春から準備してきたのに残念だ。素晴らしい講師が2人とも組合員ではないことも合わせて、組合の衰退をよく表している。ま、それはともかく・・・。
 チラシの最上部、「秋の教育講座」の前の部分には「でっかい教師になるための学びの種がいっぱい」と書かれている。実行委員の中にも、「農」と「水」に特化し、人が集まるだろうか?「私の教科は国語(英語、社会、家庭など・・・)だから、産業教育なんて関係ないし・・・」という人が少なからずいるのではないか、と心配する声があった。しかし、どんな教科でも普遍的要素は含むし、まして私たちが日頃生きる上でお世話になっている農水産業であればなおさら、不要な知識なんてないのではないか?教員がそんなケチくさい考えでいるとしたら、非常によくないのではないか?そんな風に考える人は、どうせ「でっかい教師」になんてなれないのだからいいんだよ、という話になって、内容とチラシの文案が出来た。
 情宣活動にはいろいろと反省点があって、参加者数が少なかったことが、直ちに産業教育をテーマにしたことによる、というのではないが、ただやはり、因果関係はあるだろう。
 先日、自分の受け持ちのクラスで、漢字の練習用テキストに「( )無援」とあった問題について、「( )」つまり「孤立無援」を書かせる問題を出したところ、「試験範囲は『孤立』だけだったはずだ。『孤立無援』を書かせるのはズルい」と文句を言われた。また別の時には、書いた熟語の意味を問うた。生徒達はやはり、問題集では意味まで問題になってはいないと文句を言う。もちろん私は、それらのクレームを一言のもとに斬り捨てた。せっかく「孤立無援」という四字熟語に接したのだから、それをしっかり憶えればいいのだ。漢字を憶えることが問題なのだから、意味なんて分からなくても書ければ文句がないだろう、という感覚はそもそも間違いなのだ。授業で扱い、ここが試験の範囲ですよ、と言われていない知識については、まるで憶えるのが無駄というような態度を取っては、知識は増えていかないし、生きた知識にもならない。抜き打ち的な出題も含め、あの手この手でそのことを教えてやることこそ教員の仕事である。一方、教員がそんな発想に迎合するとしたら、それは犯罪的な悪だ。
 産業教育なんて私の専門と関係ない、そんな発想に、私は同じものを感じる。自分の専門と関係ないと言って産業教育に目を向けようとしなかった教員というのは、自分の教科においても、「ここは試験に出るよ(出すよ)」「これは試験に出ないから憶えなくていいよ」と言いながら授業をしているのではないか?と想像する。
 特に若い教員には、知識を選り分けることなく、貪欲に吸収して欲しいと思う。それが役に立つかどうかは、後から考えればいいのだし、人生を終えるときに点検すればいいのだ。「役に立つ、立たない」に関する狭量な思考が教師の中に蔓延しているとしたら、これは本当に困ったことだな。
 参加者数が伸びないのは2〜3日前から分かっていたこともあり、私もやや低いテンションで参加したのだが、いざ参加してみると、それなりに面白く充実感があった。そこへ向けて一歩を踏み出せるかどうか・・・これが大切だ。