恩田陸「骰子の七の目」(2)

(一昨日の続き)
 まずは傍聴人について、である。小節の中で「私」たる斉藤栄一の目線で描かれている傍聴人の特徴を整理すると、次のようになるだろう。

・戦略会議に大いに期待している。
・分かりやすいことを喜ぶ。
・人に選んで(決めて)欲しい。
・ラベルを貼って欲しい。

 「ラベルを貼る」というのは「お墨付きを与える」ということだろう。戦略会議という公的な会議で得られた結論だから、人々はそれが正しいと信じ、安心するのだ。ひどく単純で権威を疑わない、他力本願な人たちなのである。そのため、二者択一を否定し、選ばないことをも是とする若い女の意見には動揺する。女の言葉に不安や疑惑を感じ、パニックに陥るほどなのだ。
 さて、私が今回、この作品を面白いと感じたのは、これが奇想天外なエンターテインメント小節ではなく、ある種の寓話であることに気付いたからだ。ここに含まれた寓意とは何か?それは、戦略会議=国会、斉藤栄一=首相、構成員=国会議員、傍聴人=国民と重ね合わせてみると明瞭に見えてくる。そして、若い女=作者であって、それは政治状況に対する強烈な批判者だ。
 作品というものは、往々にしてそれが書かれた時代を反映する。作者がその時代の空気の中で社会生活を営んでいる以上、当然のことだろう。「骰子の七の目」が書かれたのは2008年。思えば、衆議院議員選挙に小選挙区制が取り入れられたのが1996年で、日本もいよいよ二大政党制を実現させるべきだというような意見が幅を利かせていた時期である。実際、翌2009年には民主党政権が誕生し、自民党民主党を両極とする二大政党制の実現を信じた人も多かったように記憶する。
 衆議院参議院の多数派が異なるという「ねじれ」の状態による国会審議の混乱が、マスコミによってしばしば「決められない政治」と批判されてもいた。これは2012年に自公連立政権が発足した後も尾を引き、自公はねじれの解消、「決められる政治」の実現を声高に訴えて、2013年の参議院議員選挙で勝利する。「決められる」ことが、政治上の極めて重要な課題でもあった。
 二大政党制を目指そうとした、或いはそうなるべきだと大声を上げていた人達の中には、二大政党制が哲学的に考えて合理的だという思想ではなく、共産党社民党、中でも目障りで仕方がない共産党をつぶしたいという思いがあり、そちらこそが主眼であったことは容易に想像できる。それを露骨に語ることが出来ないから、アメリカやイギリスという、いわば日本人がコンプレックスを抱いている大国、先進国を引き合いに出しながら、二大政党制の実現を訴え、小選挙区制を導入した。それが私の理解である。言うまでもなく、二大政党制とは二者択一である。
 たとえ衆参がねじれの状態にあっても、国民にとっていい法案は可決するはずなのに、ねじれによって法案が可決せず、国会が混乱するとすれば、それはねじれが悪いのではなく、法案が悪いのだ。実際、ほとんどの法律はねじれであっても成立しており、もめるのは主に国民の権利を奪ったり、安全保障上の意見対立を含む重要な法案だったはずである。
 自公連立政権が強大な力を獲得し、ねじれの解消どころか絶対安定多数となって国政はどのように変化したか?「決められる政治」が実現したことによって「決まった」ことなんて、共謀罪特定秘密保護法、新安保法制、カジノ法などなど、実にろくでもない法律ばかりである。しかも、国会に提案される前に与党内で合意が出来ているわけだから、国会での審議なんて必要なくなってしまった。首相の「ご飯論法」もそのような背景あってこそ許されてしまうものであろう。
 「骰子の七の目」を書いた時の恩田陸は、そのような流れの途中にいたわけだが、彼女はその慧眼によって本質的な問題点を見極め、強い危惧と批判を込めてこの作品を書いたに違いない。(続く)