恩田陸「骰子の七の目」(3)

 もうひとつの政治的問題がある。「骰子の七の目」の中で主流派となる柱時計支持者は、家族の一体感を育むという点で、柱時計に大きな価値を見出していた。国会に関わる議論の中で、「家族の一体感」と言えば、すぐさま思い浮かぶのが選択的夫婦別姓に関する議論である。
 衆議院議員選挙に小選挙区制が導入されたのと同じ1996年、法務省の法制審議会は、民法に選択的夫婦別姓の規定を盛り込むよう提言した。これは、自民党内で「家族の崩壊を招く」「家庭の一体感を損なう」といった異論が噴出して提案に至らなかった。その後、国会開会のたびに野党各党によって法案が提出されるものの、20年以上にわたってついに成立には至っていない。柱時計を支持するのと、選択的夫婦別姓を否定するのと、支持と否定との違いはあるにしても、多数派が論拠として家族の一体感を持ち出す点は共通している。それは正に保守政党たる自民党の姿である。恩田陸の念頭には、間違いなくこのことがあっただろう。
 以上、長々と書いてきたが、「骰子の七の目」はこのように読むべき、いや、このようにしか読めない作品なのではあるまいか?私自身、他の当てはめをあれこれ考えてはみたが、政治状況以外のものを当てはめたのでは、どうしても矛盾や無駄が発生してしまう。
 周知の通り、本を教科書として出版するためには、文部科学省による偏執狂的と形容してよいほどの詳細で執拗な審査を受けなければならない。教科書検定というやつだ。「悪名高き」と枕詞を付けていいかどうかは分からないが、少なくとも私は、教育を国家が統制するための最も悪質な手法の1つだと思っている。私が手にした第一学習社「現代文B」の教科書にも、表紙の右上に「文部科学省検定済教科書」という文字が、恭しく印刷されている。この教科書は、間違いなく文科省の審査をパスし、教科書として流通させることが認められたのだ。
 なぜこれほど政治的で、しかも自民党を辛辣に批判したような文章が、検定をすり抜けて教科書に載ってしまったのだろうか?・・・それこそが寓話の寓話たるゆえんである。
 政治家=権力者というのは、私が見たところ権力というものに強い執着を持つ人たちだから、善悪に関係なく、自分たちを批判する存在は許せない。だが、彼らがこの小説に目を付け、作家を批判したとしても、小説家は「そんなつもりで書いたのではない。ひとえに人を楽しませるという目的で、この奇想天外なお話を書いた」、あるいは「私が批判しているのは二者択一の単純思考だけだ。例えば、高校生が小論文を書く時の指南書にも、賛成か反対かを論ぜよとあるではないか」と言い逃れることが出来る。「そんなはずはない」と反論することは出来るにせよ、批判の意図をもって寓意の意味を証明することは不可能だ。
 ご存じの方も多いだろうが、教科書には指導書という教師用虎の巻がある。そこには、教科書出版社として、この作品をどう理解し、何を目指して収録したかということが書いてある。「骰子の七の目」についての基本的理解は次の通りだ。

「平和な会議を混乱させる異質な『女』の存在を通して、みんなが共有する『正しい判断』で物事を1つに決めることへの疑問を投げかける作品である。」
「この教材を通して、選択する行為あるいは選択しない行為の持つ意味について考えさせる契機になるように指導したい。会議でのメンバーの意見や『私』の反応を整理し、『良識』による二者択一をよしとする価値観と、それと対比される影のような『女』の選ばないという価値観に注目することで、「サイコロの七の目」の表すものについて理解を深めさせたい。」

 具体的な事例に当てはめをしないと、何を言いたいのやらよく分からない解説である。もちろん、最もぴったりと当てはまるものが、作者執筆当時の政治状況であるなどとは一切書いていない。政治などおくびにも出さないのである。それが、教科書編集者の本心なのか、寓話であることを守り抜くためにあえてそうしたのかは分からない。
 一方、文科省の検定官は、気付いていたら採録を許可したとは思えないので、全然気が付いていないのだろう。それは「恩田陸」という流行作家の名前に惑わされたか、教科書出版社の上のような解説を信じてしまったか、といったところであろう。もっとも、何に対しても及び腰な今時の教師は、たとえ作者の意図を理解したとしても、授業では当たり障りなく虎の巻に沿って通り一遍の解釈を確認して終わり、という可能性が小さくない。文科省の検定官が、そこまで現場の教師の動きを読んだ上で、あえて危険はないと判断して許可した可能性・・・?そんなことがあったらすごいな。(続く)