恩田陸「骰子の七の目」(4)

 この小説の寓話としての意味については、昨日までの記述でほぼ尽きているのだが、なにしろ小説のタイトルが「骰子の七の目」である。その意味するところを明らかにする必要はあるだろう。昨日、教科書会社の虎の巻に、「『サイコロの七の目』の表すものについて理解を深めさせたい。」という記述があったことに触れた。その意味が分からなければ、理解を深めさせることも不可能だ。
 この作品の寓意の面白さに気付いた時、IT大嫌いな私も、インターネットでこの作品についてどのような意見が飛び交っているか調べてみた。驚くべきことに、ほとんど何も理解されていないことが分かった。試みに、Yahoo知恵袋を見てみよう。

Q:この七は何を表しているのか分かりません。分かる方はいますか?
A:見えない七の国を表しているようです。

 抱腹絶倒。果たしてこれが「答え」と言えるであろうか?教科書会社の虎の巻では次のように書かれている。こちらは上に比べるとさすがに気が利いている。

Q:「見えない七の国」とはどのようなものか、考えてみよう。
A:大多数の平均的な意見や良識による判断によって多くの人は安心して平和に暮らせるが、その陰には、表立っては見えない別の考えがある。それを二者択一で切り捨てるのではなく、選択しないことでさまざまな考えや価値観を認める、そうした複雑さを内包した世界のこと。

 (1)に書いたとおり、女はサイコロには六までしか目がないにもかかわらず、「上に出ている目と、陰になって見えない下の目を足すと七になる」とした上で、「サイコロには見えない七の影が常につきまとっている」と言い、「私は見えない七の国から来た」と言う。
 サイコロの性質から考えれば、「七の国」とは、「見えない」「常に成り立つ法則」という2つの性質を持つ。この場合「見えない」は、戦略会議に関わる人たちには「見えない」であって、女には明瞭に見えているのだが、ここから、具体的性質を導くのは少し難しい。
 むしろそれは、サイコロの性質から考えるのではなく、戦略会議と対立する立場とはどのようなものかというアプローチで考えてみた方がよい。すると、常に二者択一の形でだけ思考すること(これは女にとって思考停止を意味する)を否定し、もっと多様な考え方を認める世界だ、ということになる。それこそが、「七の国」であり、戦略会議の人たちには見えていない、この世の真実というものである。
 サイコロの1〜6の目が、戦略会議の構成員が6名であるということと関係するのかどうかは分からない(私は無関係と考える)。
 ところで、斉藤栄一が「選ぶことによって判断力も育っていきます。優柔不断は、とてもよくないことです。」と言い、「決断できた私たち、選択できた私たち、それが良識ある都民であり、良識ある暮らしであるはずです」と言ったこと(詳細は(1)参照)に対して、女は次のように切り返す。

「虫歯になるからお菓子は一つにしておこうっていうのと、用途に応じて柱時計と腕時計を使い分けようっていうのと、どうして同じ論点で話そうとするんですかねえ。優柔不断も、決めつけも、どっちも同じくらい迷惑だと思いますがね。」

 教科書では、「優柔不断」と「決めつけ」について、「ここでは具体的に何をさすか」と問題が設定されている。適切な問題だと思うが、虎の巻に書いてある解答を見てみると、正にびっくり仰天だ。

「『優柔不断』は柱時計か腕時計かを一つに決められないこと。『決めつけ』は平均的・良識的な意見であるとして柱時計がよいと決め、その意見を押し通すこと。」

 こういうのを「矛盾」と言う。その見本のような解答だ。「優柔不断」をこのように理解すれば、女もまた、どちらかを選ぶことを求めていることになり、「どうして両方選んじゃいけないんですか」という自分自身の発言と齟齬を来す。
 「虫歯になるから」云々を読めば、女はお菓子をひとつ選ぶことの必要性は認めていることになる。一方、時計をひとつに決める必要はないと考えている。つまり、世の中には決めなければならないことと、決める必要のないこととがあり、決めなければならないことについて決められないことも、決める必要のないことについて決めることも、どちらも悪だと訴えている(ここにも作者の政治批判がある)。「具体的に」と問われれば、お菓子をひとつに決められないことが「優柔不断」、時計を柱時計に決めてしまうことが「決めつけ」ということになる。これが合理的な解釈というものであろう。
 どうも虎の巻のこの部分などを読むと、教科書編集者(虎の巻制作者がイコールかどうかは不明だが)にこの作品がまともに読めているとはとうてい思えない。そうすると、教科書出版社では、この作品が寓話であり、日本の政治状況を批判しているなどという意識は微塵もなく、今をときめく恩田陸の、奇想天外なSF小説、そこに二者択一批判という多少は哲学的な話題も混じっているという無邪気な意識で採録した、というのが確かなのではないだろうか?
 実は、今回「骰子の七の目」についてこの一文を書くかどうか、私は大いにためらった。なぜなら、こんなことを書いて公にし、それが文科省の目に止まった日には、教科書にこの作品を載せられなくなってしまうかもしれない。授業をどのように展開したかも含めて、一切知らん顔をしていた方がいいのではないか?一方で、この作品の意味がよく分からず、ネットで解説を探す一般の読者に対して、こんな理解の仕方を提示しておいた方がいいのではないか?とも思った。もちろん、今私がこんなことを書いているということは、葛藤の末に、後者を選択したということである。作者がこれを読んだら、果たして「我が意を得たり」と思うのか、吹き出してしまうのか・・・そんな想像をしつつ、これでおしまい。(完)

(補)授業は、上のような私の理解を一切示すことなく淡々と行い、いつも通り、最後にまとめの作文を書かせた。それの抜粋版を作って生徒に還元し、正に最後の最後で、私はこう読む、みたいな話を少ししようと思っていたところ、なんと、生徒の感想文に「齊藤=首相、戦略会議=国会、傍聴人=国民」という重ね合わせの指摘があった(びっくり!)。おかげで私は、自分の読みをゼロから押しつけがましく語るのではなく、生徒の作文に対するコメントとして、さりげなく語ることができた。