辺野古に思う

 辺野古における米軍基地建設のため、海を埋め立てる工事が本格的に始まってしまった。政権は、普天間基地の危険除去のためのやむを得ない措置だと言うし、反対派は自然破壊と沖縄の民意無視を問題とする。私は反対派だが、報道を見ながら諸手を挙げて反対派に賛成しているわけではない。
 今回の問題についてではないが、私は、国が県の意向に反する何かの施策を実行することは「あり」だと思っている。ことを自分の身辺に置き換えてみると、例えば勤務先での組織の決定と自分の意思の関係が、国と県との関係に当たる。職員としての自分の意思は最大限尊重されるべきだが、一方で、個人個人の意見を全て採用・実行することは出来ない。職員個人が、自分の意を曲げる必要のある場面は少なくないだろう。同じことである。国と県との間には、ある種の上下関係が存在する。自衛隊を含む軍の基地にしても、核廃棄物や原発にしても、それによる利益は得たいが、自分が犠牲を払うのは嫌だという気持ちは誰にでもあるのであって、その気持ちを尊重していたのでは、それらの事業は成り立たない。基地や原発であれば、いっそのことなくせばいい、と言いたくなるが、現実問題として人々が求めているからそれらは存在しているのである。本当に日本という国にとって必要なことを遂行するためには、どこかの県がアンバランスに負担を被ることは起こり得る。県の民意に反する国策をゼロにすることは極めて難しい。
 自然破壊の問題は、やはり重要だ。あの海を埋め立てて滑走路を作ろうという感覚が私には理解できない。人間は自然によって生かされているのである。だが、そう考える時、ことは辺野古の滑走路建設に止まらない。軍という存在そのものが、最も自然や環境に反する存在である。これほど無制限にエネルギーを消費し、有事となれば無節操に自然を蹂躙する存在などあるものではない。地球上で人間が命を繋いでいくために、軍を持って縄張り争いなどしていられる場合ではない、と認識すべきなのだ。軍の存在は自然に対する人間の傲慢を象徴する。
 政府は、普天間辺野古が二律背反の関係であるかのように言う。それはあくまでも、米軍の現状を維持しようと思えば、の話である。巨大な嘉手納基地などもある中で、普天間基地の返還を実現するためには、辺野古への基地建設しか選択肢がない、というものではない。まず第一に努力すべきは、在日米軍全体の規模縮小である。そしてそれを阻害しているのは、アメリカに媚びを売り、パワーバランスによってのみこの世の平和を実現させるという発想だ。
 言うまでもなく、それらのような問題は、日本人全体のこの問題に対する無関心と、パワーバランスによってしか平和は維持できないという先入観、他国を武力で牽制していかに多くの利益を自分のものとするかが大切だという欲望とに支えられている。自然も沖縄も軍もどうでもいい、自分自身の目の前の利益以外に関心はないという日本人、政治は政治家がすることで、そういうことに関わるのはただただ面倒くさいという日本人がいかに多いことか。
 丸山真男「『である』ことと『する』こと」が書かれてから約40年。高等学校の多くの教科書にこの文章は載り続け、多くの高校生が「国民は今や主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ」、「自由と同じように民主主義も、不断の民主化によって辛うじて民主主義であり得るような、そうした性格を本質的に持っています。」といったフレーズを目にしているはずだ。いくら授業で扱っても、言葉としての意味が分かるというのと、それを我がこととして受け止め、日々の生活の中で生かしていくというのはまったく次元の違うことであるようだ。どうすれば人々が権力を監視することや、自分の利益を超えて、世の中全体を見つめようとすることに目覚めるのか、今のところ私にはその方法が分からない。
 権力がそれによって強引に何かをすると、反発よりはあきらめの方が多く生まれる。当初の反発が大きいほど、反動としてのあきらめは根が深い。これは学校における「日の丸・君が代」問題から私が得た、極めて深刻な教訓である。辺野古の基地建設阻止へ向けて、あきらめないことは大切だ。だが、その努力をすればするほど、権力に押し切られた後の徒労感、無力感、あきらめは大きくなるだろう。そうならないためにどうすればよいか、私にはそれもまた見えない。