働き方改革(続の2)

(1月26日から続く)
 記事にもあったが、法令上、教員には残業をさせてはいけないことになっている。「給特法(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法)」というものがあって、そこには残業を命じることのできる例外が4つだけ書いてある。簡単に言えば、「生徒の実習」「学校行事」「職員会議」「非常災害、生徒の指導に関し緊急措置が必要な場合」である。しかし、「学校行事」や「職員会議」であれば、問題なく残業を強いることが出来るかと言えば、そんなことはあり得ない。通常は、勤務時間内に終わらせられるように策を講じたにもかかわらず、何か特別な事情で勤務時間外にはみ出してしまう場合に限られる。しかも、そうなってしまった時は、他のどこかで振り替え措置が取られなければならないとされている。
 その上で、そうは言っても、実際には残業が必要となる時もあるでしょう、しかし、教員の残業をカウントするのは難しいから、残業手当は出さない代わりに、一律に基本給の4%を割り増しで払いますよ、ということになっている。これを「教職調整額」と言う。聞くところによれば、4%というのは、この法律が制定された1971年当時の、小中学校教員の平均的な残業時間だということだ。勤務時間の4%は約20分だ。本当かどうかは知らない。
 ちなみに、給特法には「公立の義務教育諸学校等の」という文言が付いているが、高校教員にもそのまま準用されている。
 中央教育審議会は、この給特法の改正答申は見送ったらしい。これはまた奇っ怪な話だ。現在、小学校教員の3割、中学校教員の6割が過労死ラインとされる月80時間以上の残業をしているという前提で答申が作られたとすれば、月45時間という上限は、明らかに残業時間を短くするための指針であるわけだが、それでも、月に45時間までは仕方がないと認めていることになる。勤務時間の4%は月あたりにすると約7時間なので、38時間余計に働くことになる。現実的に残業時間は45時間までしか圧縮できないと認めるかのような答申を作っておいて、余剰の38時間のただ働きは改善しない、ということである。公の議論として、タテマエの辻褄さえ合わせないというのはよろしくない。
 先日に続き繰り返すが、私は教員に残業手当を出すのがいいとは思っていない。と言うより、残業を正確に把握できるわけがないと思っている。だからこそ、残業はゼロにすべきなのだ。ただ、どんな職場でも、勤務開始時刻ちょうどに出勤するなどということは、どんな職場でも不可能なのだから、始業前に20分や30分早く来たのを「残業」とか「超過勤務」とか言うのも止めるべきだ。それができないと言うのであれば、職員の勤務は8:30からで、生徒の登校は9:15とかにしなければならない。
 先日(1月20日)、私は「どうも最近の議論を見ていると、最終的に学校をこうしたい、といって変えようとしているのではなく、勤務時間が長すぎるからどこを減らせばいいかな、と、まるで市場で競りでもやっているかのように、相対評価で理念なく仕事の取捨選択をしているように見えて仕方がない」と書いた。今回の答申は、そのとおりにやってくれた、という感じである。国の中心で、有識者と言われるような人々が集まって、これほど哲学や理念のない議論しか行われないことに、私は何とも言えない情けなさを感じる。
 ところで実は、私の残業時間は、始業前の30分を入れても、何とびっくり月に15時間前後である。4%は超えているが、中教審の努力目標の3分の1に過ぎない。呑気な教員だとも、模範的な教員だとも言える。では、私がどのようにしてそんな生活をしているのか、次はそのことを紹介し、是非について考えてみることにする。(続く)