働き方改革(続の3)

 飛び飛びですみません。残業問題の続きです。
 さて、私が残業時間を最少限、いや実質ゼロに出来ている理由を考えてみよう。その理由は、大きく分けて2つある。ひとつは運。もうひとつは自分自身の考え方の問題だ。
 「運」というのは、校内の仕事の調整で、どのような仕事を割り振られるかという点についてである。どこの学校でもだと思うが、現在、校内でどのような仕事を分担するかというのは、管理職が本人の希望を聞いた上で調整する。今年の私は諸般の事情で、必ずしも自分が避けたわけではなく、クラスの正担任や分掌(生徒指導、進路指導といった係)の長(主任)にはなっていない。部活も開店休業状態で、実質的に活動はゼロである。これはあくまでも今年の話なので、来年度以降どうなるかは分からない。クラス担任や分掌の長をやっていても残業ゼロが維持できるかどうか・・・その時こそ、真価が問われるかも知れない。まぁ、「運」についての議論をしても仕方がないので、本当の意味で問題となる「自分自身の考え方」について考えてみよう。
 何をする時でも、モチベーションというのは大切である。残業を減らすにしても、世間や管理職から「法令上の勤務時間が7時間45分(←本当です。8時間ではない)だから、その時間を守れるようにしなさい」と言われてするのと、自分自身が「かくかくしかじかの事情で、勤務時間は守るべきだ」と考えるのとでは、同じことをするにしても結果が変わってくる。人間は、自分自身の意識として本当にやりたいと思ったことをする時に、最も強くなるのである。
 私は、規則があるからではなく、自分自身で残業時間はゼロにすべきだと考えている。これがまず一番に重要な点だ。では、なぜ残業をゼロにすべきなのか、それは第一に、そうしなければ自分の勉強時間が確保できず、自分が勉強時間を確保できなければ、生徒に新鮮な刺激を与えることは出来ない、と思っているからだ。
 教員になった当初はそんなことは考えてもみなかったのだが、時間が経つにつれて、自分が授業で教えている「国語」というもの、もっと平たく言えば「日本語の読み書き」というものの難しさ、奥深さを感じるようになってきた。同時に、校内をはじめとするいろいろな場所で他の国語科教員と話をしていて、大卒だから、教員だからといって、必ずしも日本語の読み書きがきちんと出来るわけではない、と感じる場面も多くあった。そんなことの結果として、教員が勉強時間を確保することは、実は大切なのではないだろうか、仮に、生徒や同僚に何かを頼まれて、それを断ることがあったとしても、長い目で見れば、自分が問題意識を持って何かしらの勉強をしっかりしていることの方が、生徒にとってもメリットが大きいのではないか、と考えるようになったのである。
 また、いろいろな教員の姿を見ていて、もしくは、自分自身が生徒と関わっていく中で、教員が様々な生活体験を持っていることの重要性を感じることも多かった。例えば、ひたすら机でパソコンに向かっている教員、部活でも課外授業でも際限なく付き合う教員というのは、いわゆる「熱心な先生」である。だが、果たしてそういう人が「面白い人間」であり、存在そのものが生徒の刺激になるような人間であり得るかといえば、必ずしもそうではない。もちろん、そのような仕事熱心な教員の中にも、個性的で人間的魅力にあふれている人もいるだろう。だが、そのような生活によってひどく視野の狭く、つまらない、もしくは危険な人間になっている人もいる(因果関係は逆かも知れない。視野が狭く、つまらない人間だから盲目的に仕事熱心、ということもあり得る)。
 だとすれば、それが仕事であるかどうかは結果の問題であって、モチベーションとしては、自分のやりたいことをやりたいようにするのがいい、そのためにはまず残業をゼロにして、残業をする場合は自分の趣味でやっていることがたまたま「残業」であるべきだ、と考えるようになったのである。
 そしてもうひとつ、家庭事情との関係だ。最近、男の育児参加ということがずいぶん語られているが、そのような世間の動向とは関係なく、私は家事分担は基本的に男女平等であるべきだと思っている。というわけで、お料理を中心に、家の中の仕事はかなり引き受けている方だと思う。共働きで、しかも妻が非常に忙しい、という事情もある。
 私が、自ら残業を避けようとするのは、以上三つの理由による。そして、通勤に3時間近くの時間を取られる。その時間も考慮した結果、私は18時半~21時を家事、21時~23時を自分の勉強の時間として確保する、というのが、最もバランスの取れた理想的な生活だ、という結論に達した。これは本心なので、では、そのような生活を実現するためにどうしたらいいだろう?と知恵を絞ることになるのである。(続く)