学校の「権威」とは?

 一昨日の毎日新聞「ナビゲート」欄に浜崎洋介という批評家による「学校の『統治』について」という小さな記事が載った。記事は小さいが、いろいろと考えさせられた。必ずしも、「いい記事だった」というわけではない。
 氏の問題意識は、体罰が問題視される状況下で、「いまや権威も権力(体罰を含む強制力)も奪われた教師が、どうやって生徒を『指導』するのか、あるいは学校を『統治』するのか」という点にある。その上で、体罰問題を体罰問題としてのみ処理してしまえば、「一切の後ろ支えを失った教師は」「分かった、分かった、お前のことはもう学校で対処しない。警察に行こう」と言うしかなくなる、と言う。氏は、だからどうしろ、という具体的な提言を現場に向かってしているわけではない。「教師が現場放棄をしてしまう前に、私たちは、教師の適切な権威と権力について、改めて考えておく必要がある」と結んでいる。
 私がまず最初に思ったのは、昔の教師は体罰が許されていたから権威(とりあえず「精神的な存在感・威圧感のこと」とでもしておこう)があった、というわけではないだろう、ということだ。むしろ、権威の無い人間が体罰を用いるほど危険なことはない。それは面従腹背を生み、人の心をよりいっそう深刻に傷つける。だから、考えるべきは、体罰などではなく、ストレートに「学校の権威の低下」だ。これは、単に「言われている」だけではなく、私の実感としても著しいものがある。
 では、学校の権威とは何から生まれるものなのだろうか?理想から言えば、それは教員の人格と学識によって生まれる。とは言え、これはきれい事、机上の空論というやつである。なぜなら、「猫に小判」という言葉もあるとおり、人格や学識を感じる心がない、もしくはそれらをどうでもいいと思っている人に対しては、何の力をも持たないからである。とすると、いったい何が権威になり得るのか?それを考えるために、まず、なぜ学校の権威が低下するということが起こっているのかを考えてみよう。思いつくままに挙げる。
・マスコミがポピュリズム的に生徒・保護者に迎合し、学校を批判した。
・教員が卑屈で、生徒・親・社会の意向を忖度しながら、下手に出すぎた。
・教育行政も批判を恐れて、謝って済ませようとした。
 根っこにあるのは、とりあえず善良でまじめな教員が、何かにつけて責任を引き受けようとしすぎてつけ込まれた、多忙な生活の中で、トラブルが複雑化するのを避けるため、とりあえず頭を下げる、といったことである。つまり、自分たちは「本来」どうすべきかではなく、「とりあえず」どうすべきかという発想で対応した結果、自分たちをよりいっそう分の悪い立場に追い込んでいった、ということだ。
 私は前々からよく言うのだが、学校は「勉強」するための場所であるという原点に徹底的にこだわるべきである。「人生は何でも勉強だ」などと詭弁を弄してはいけない。そんな風に考えれば、何もすることがないのと同じである。「勉強」の基本は教科学習だ。ところが、これまたよく言うとおり、この点についての学校のこだわりは甚だ希薄で、姿勢はとても甘い。
 部活の試合や研修があれば「公認欠席」として授業でも考査でもサボれる(「勉強」よりも「部活」が上)、法定授業時数の3分の1までなら休んでも構わない(とはあまり堂々と言わないけれど、実際にその通り。生徒にも了解事項。実時数の3分の1よりかなり多い)、赤点を取っても(おそらく)全ての学校で追指導が行われ、更にそれをサボって年度末に赤点が付いても、まだ再指導による救済が用意されている、といった具合である。
 つまり、高校とは「より高度な勉強がしたいからあえて入る」はずの場所なのに、かなり積極的にサボっても進級・卒業ができる仕組みになっている。しかも、赤点を取った、学校をサボりがちだ、もしくは追指導に来なかった生徒に電話をかけている教員を見ていると、少し極端な言い方だが、平身低頭、なんとか勉強して下さいと懇願しているかのような話し方をしていることも少なくない。言うまでもなく、保護者に対しては、それに輪をかけて低姿勢だ。
 赤点とは、通常評点40点未満を言う。評点とは、筆記試験の結果だけでなく、平常点と言われる、授業中の課題や宿題についての評価(通常は100点満点のうち20~30点分。学校や教科によって違う)を含む点数である。
 生徒が点数を取れるかどうかについては、教員側の問題もあるので、一概に点数の取れない生徒を非難するのは問題である。教員の実力も常に問われているべきだ。しかし現実問題として、この40点というラインは、どんな教科担任が引いたものであっても、低いが上にも低い設定になっていて、教員側の問題がよほど犯罪的なレベルでなければ、取れないことの責任は問われて仕方がないラインだと思う。
 私は、心身に特殊な問題を抱えているなどの事情を多少考慮した上で、それに該当しない生徒には、追指導も必要ない、原級留置も構わないという立場である。と書けば、いかにも厳しい、いや、冷たいと感じる人もいるだろうが、「勉強する」という目的のために作られた組織を、目的集団として純粋に機能させるべきだ、というだけの話である。そこからの逸脱とどちらが異常だろうか?
 今日の本題に戻す。

 学校の存在意義に関わる原点の部分で、今のような迎合趣味的な対応をしていれば、学校が権威を保てないなどというのは当たり前である。「墓穴を掘る」というやつだ。思うに、おそらくどんな組織でも、困った問題が起こるのは、その組織が本来のあり方から外れた時であり、それを克服するには基本・原点に立ち返り、そこに徹底的にこだわるのが正しいやり方だ。これは世の中の普遍的法則である。学校はまだそれをするための権限は持っている。それをやり通せば、権威は後から付いてくる。