県民投票考

 沖縄で、今週末に普天間基地辺野古移設についての県民投票が行われる。私は当初から「危ういなぁ」と思いながら見ている。実は、我が宮城県でも、先日、女川原発の再稼働を認めるかどうかの県民投票を行うことを県に求めるという署名が行われ、11万あまりの署名が集まって、県に対する申し入れが行われた。これについても、私の思いは同じだ。
 二つの県民投票に共通するのは、実施者、あるいは実施を求める側に、自分の望みどおりの結果が出て欲しい、もしくは出るはずだという確信があり、それを政治的決定に反映させたいという思惑がある点である。
 月曜日の新聞報道によれば、共同通信社の電話世論調査に対して、沖縄県民の97%が投票に行くと回答し、そのうち67%が移設反対だそうだ。このとおりの結果になるとすれば、有権者数に対する反対率は63%ということになる。県は、反対者が有権者の4分の1を超えた場合、結果を首相とアメリカ大統領に通知することになっているらしいので、調査結果に多少の誤差があったとしても、4分の1=25%は軽くクリアーできそうだ。
 しかし、本当に25%を超えるという保証はない。県民投票は諸刃の剣である。仮に、沖縄県知事の期待する結果が出なかったとしたら、逆に、その結果は自分たちの首を絞める。移設反対の結果が出たら、鬼の首でも取ったように「民意」を振りかざす一方で、意に反する結果が出た時にそれを尊重しない、というのはナシだ。宮城県原発でも同じである。そしてこれは、基地の移設という問題だけではない。基地の移設については民意、民意と言うのに、他の問題では必ずしも多数意見ではないことをする、というのもナシである。つまり、県民投票まで行い、民意を盾にすることは、あらゆる場面で民意=多数意見を尊重することになり、見識ある人間が民を説得するということを不可能にしてしまう。
 かつて、私が仙台一高という男子高校に勤めていた時、宮城県は県立高校の共学化を推進しようとしていた。仙台一高の生徒や同窓会は猛烈に反発し、あれこれと動いていたのだが、その際、新聞社が行った県民世論調査の結果を盾にして、自分たちの正当性を主張する場面が多くあった。私はその時、「あなたたちは、次の世論調査で別学を支持する意見が多数になった時には白旗を揚げる気があるのか?」と生徒に問うた(→参考記事)。
 人々の支持が多いかどうかと正邪、真偽は関係ない。支持者がほとんどいないような少数意見の中にも、歴史の批判に耐えられるような立派な意見は存在する。単に数が多いか少ないかで事を進めようというのは軽薄なるポピュリズムである。自分たちの正当性に自信があるなら、論理でこそ勝負し、少数を多数に変えようと努めるべきであって、数に頼るべきではない。
 もちろん、民主主義は最終的には多数決で決めざるを得ないという面があるので、数を一切気にしないというわけにはいかない。だが、沖縄の場合、昨年の県知事選の結果で十分ではないか。
 もう一点は、選択肢に関することである。今回の沖縄県の場合、「賛成」「反対」「どちらでもない」から、一つを選ぶことになっている。問題はできるだけ単純化させないと意思表示しにくいので、これ以上選択肢が増やせないのは分かる。しかし、それぞれの選択肢を選ぶ人の選択理由は多岐にわたるだろう。
 やはり月曜日の新聞報道によれば、共同通信社が独自に賛否の理由を尋ねたところ、辺野古移設の「反対」理由としては、「沖縄に新たな基地は不要だから」が多く、「賛成」理由としては、「普天間基地の危険性をなくす必要があるから」が多かったという。つまり、辺野古に移設反対というのは、普天間温存ではなく、基地の県外移設を求めることも含めて考えているようであるのに対して、辺野古に賛成というのは、普天間辺野古か?の二者択一に陥っているように見える。
 私の周りの人を見ていても、どうも今回の県民投票は、普天間辺野古か?であって、県外移設や日米関係の見直しなどを含めて考えている人は少ない。賛成×反対という単純な二項対立が、そのまま思考にも反映されてしまうかのようだ。これは新たな弊害を生むのではないか。私はこの点をも危惧する。
 沖縄の県民投票で移設反対派が大勝したとして、それを首相やアメリカ大統領に通知しても、それによって辺野古への基地移設が白紙に戻るとは到底思えない。効果が期待できない割にリスクは大きい。

 どうしていいか分からない問題について、やむにやまれず県民投票で民意を問うならまだしも、実施者もしくは提案者が自分たちの意見を正当化するために県民投票を使うことに、私は賛成しない。