沢木耕太郎と『深夜特急』(1)

 2月19日火曜日の夜、塩釜市民図書館の主催で開かれた沢木耕太郎の講演会に行った。塩釜市の中心部にある「遊ホール」(379人収容)は大入り満員。事前に整理券を配布していたのだが、少なくとも1週間前には「配布終了(満席)」の掲示が出ていた。へぇ、沢木耕太郎って、こんなに集客力あるんだ、と驚いた。
 さて、なぜ1週間以上も前の話を今頃書くかと言えば、ただぼんやりと話を聴きに行くつもりだったのが、当日の朝になって、やっぱりこれをきっかけに『深夜特急』を読み直してみようと思い立ち、更に、勤務先の図書館にあった『旅する力 深夜特急ノート』という続編のようなものも手に取った結果、それらを読み終える前に何かを書く気にもならず、今になってしまったのである。
 講演会の演題は「作家との遭遇」。沢木氏自身が直接接した吉村昭山口瞳、作品を通して知る小泉八雲、更には作家ではないが棋士中原誠といった人々について語ったのだが、まぁ、たいした内容のある話をしたわけではない。一つ一つの逸話が面白く、それを上手く結びつけていくものだから、なんだかそれなりの講演を聞いたような気分になるだけの話である。申し訳ないが、講演についての私の感想はそれだけ。
 一方で、久しぶりに読んだ『深夜特急』は猛烈に面白かった。昔読んだ時は、文庫版の第1巻、すなわち香港の廟街に興奮し、マカオでギャンブルに没頭する場面が特に印象的だった。まだ外国旅行慣れしていない沢木氏が、長旅を始めたばかりの時に感じた新鮮な興奮がよく伝わってくるのだろう。マカオの場面で私は、カジノにいる沢木耕太郎になりきって手に汗を握った。結果、それ以後の場面はさほど記憶に残らなかった。ところが、今回、確かにマカオは面白いにせよ、実はそれ以後もよく書けていると感心させられた。
 「感心」はただの傍観者的な「感心」ではない。久しぶりでそんな旅がしたい、という気持ちが強くわき起こってきたのである。「そんな旅」というのは、宿も交通手段も予約せず、およその予定だけを決めて、地元の人々とのコミュニケーションに支えられながらするような旅、である。
 今回初めて読んだ『旅する力』も負けず劣らず面白かった。それは、『深夜特急』という作品がどのようにして書かれたのかということを、かなり丁寧に解き明かしている。山崎豊子大地の子』についての『「大地の子」と私』や、遠藤周作『深い河』についての『「深い河」をさぐる』など、作品の成立背景・事情を作者自身が語るという本は時々あるが、たいていの場合は、作者渾身の作品を前に、蛇足的な雰囲気が漂う。出版社が売り上げを狙って便乗した嫌らしさも感じられる。ところが、この『旅する力』は秀逸である。『深夜特急』の一部として、セットで読まれるべき本である。
 その中に、「貧乏旅行者のバイブル」と言われる小田実の『何でも見てやろう』に沢木氏が触れた場面がある。

「『何でも見てやろう』には「1日1ドル」で旅行する方法は具体的に何も書かれていなかったけれど、小田実はぼくの気がつかないうちに「旅をしたい!」という情熱を溢れるほど注ぎ込んでくれていたんだ。」

 我が家にある『深夜特急』の文庫本は、前世紀の末に買ったものである。そもそも、沢木耕太郎がアジア~ヨーロッパを旅したのは1973年で、その体験を書いた『深夜特急』が完結したのは1992年である。私がよく似たようなルートで旅したのは1983~4年なので、当然、私が初めて『深夜特急』を読んだのは、自分が貧乏旅行者を卒業して就職した後の話である。
 一方、小田実の『何でも見てやろう』が出版されたのは1969年なので、これは、私が中東へ行くより遙か昔の話だが、実は、初めて読んだのはおそらく旅行中のことである。『深夜特急』にも登場するテヘランの有名な安宿「ホテル・アミル・カビール」で出会った日本人が持っていたその本を、日本語の活字に飢えていたこともあって、夢中になって読んだ。「おそらく」と書いたのは、我が家にある『何でも見てやろう』が1981年の第35版で、これは私が旅行する前に当たるからだ。帰国後、古書として買ったのかも知れないし、まだ1981年の版が売られていたのかも知れない。あるいは、旅行前に読んだが、面白いとも思わなかっただけかも知れない。記憶がない。
 私がテヘランで『何でも見てやろう』に熱中した時というのは、パキスタンからイランまで1ヶ月半にわたって過酷な旅行をしてきて、その間、体調の不良にも苦しみ、少し気力が萎えてきていた時だった。『何でも見てやろう』を読んでいた時、おそらく私は、自分がテヘランの街にいることも意識していなかったと思うが、旅行を続けることへの意欲をかなり回復させることになったのは確かである。
 具体的な方法論が書かれていなくても、旅がしたいという意欲をかき立てるというのは、優れた旅行記録であることの証明なのではないだろうか?学校で勉強をする、あるいは私の場合、勉強を教えていても、大切なのは動機付けである。それは、人は自分の力でしか成長することができない、ということからくる必然だ。だが、それは最も難しいことでもある。『深夜特急』にしても、『何でも見てやろう』にしても、人に「旅に出たい」という気持ちを起こさせる力は大きい。優れた書物である。(続く)