ロト=シエクルの「春の祭典」(4)

 グラズノフは、タネーエフが隣室で自作の交響曲をピアノで演奏するのを壁越しに聴いて、それが終わった瞬間に姿を現し、完全な形でピアノで弾いてみせたそうである。ショスタコーヴィチが述べている逸話だが、一方、そのショスタコーヴィチも、レコードで1度だけ聴いたフォックストロット(社交ダンス用の曲)の曲は魅力的だが演奏が不満だと言って、45分の間に、それを管弦楽曲に編曲してしまった。
 よく思うのだが、暗譜の能力、音を憶える能力というのは、音楽的な素質と深く関わる。音を憶えるといった場合、音高だけではない。優れた音楽的能力の持ち主は、音質をも絶対値的に記憶する。私にはそのような能力がまったくない。音楽的な能力の低さは、本当に悲しくなってくるほどだ。しかし、だからこそ、あまり面倒なことを言わず、音楽を脳天気に楽しむことが出来る、とも言える。鋭敏な舌の持ち主は、美味いものがなくてストレスが溜まる。それと同じことである。
 それはともかく、そんな私だから、曲が始まってしまうと、以前聴いた様々な演奏のことは忘れ、その曲はそのような曲なのだと思い込み、あれこれ感心しているうちに曲が終わる、ということになってしまう。しかも、我が家にあるどの再生装置を使うかによって、もしくは、スピーカーで聴くか、ヘッドフォンで聴くかによって、やはり音が変わる。だから、ロト=シエクルに続き、マゼールブーレーズによる演奏を聴けば、それぞれに「春の祭典」とはそのような曲だと思って疑わない。ただ、マゼールの方がブーレーズよりも更に音の響かせ方が派手であるとは思った。ホルンなどは正に象の鳴き声である。結局は、指揮者による音のコントロールの仕方の問題は非常に大きい。録音や再生の問題も、もちろん否定できない。
 それでも、「春の祭典」漬けのような生活をして、それぞれ3度くらい聴いているうちに、かなり明瞭に特徴が見えてきた。ロトがテューバトロンボーン、ホルンの時代的変化を強調するからそこに気を奪われていたが、実際にはっきりと音質が違うのは、むしろ弦とトランペットのようだ。それらが非常に鋭く派手でよく目立つ。
 すると、分かってくるのは、弦がスチールであることと、ピッチの違いという問題だ。国際標準音がA=440Hzだとは言っても、実際には、より聴衆受けする華やかな音質を求めて、世界中のオーケストラがそれよりも高い、場合によっては450Hzを超えるようなピッチで演奏しているということは、おそらく常識である。強力なスチール弦がそれを可能にする。弦が高く明るく強い音を出すので、トランペットがそれによく調和するのだし、他の楽器も全体的に同じ方向性を持つことになる。(2)に書いたとおり、フランス式の楽器は435Hzだ。この違いは大きい。その結果、弦とトランペットが殊更に目立つのだが、それに合わせる形で他の楽器も確かに明晰で派手な音を出している。その結果、ロト=シエクルのものよりも20年、30年近く古い録音であるにもかかわらず、一つ一つの楽器の音が分離して聞こえてくるのも確かだ。テューバトロンボーン、ホルンといった個別の楽器の特性という問題ではない。
 さて、このように違いがある程度はっきり認識できてきたところで、では、ロト=シエクルの演奏の優位性とは何か?ということを考えてみると、それは音楽的な感動という点について言えば、申し訳ないが、「ない」と言ってよい。ブーレーズがいいかロトがいいかというのは、正に好みの問題、として構わないということである。ロト=シエクルの演奏を聴けば、初演時のパリ人の当惑や反感が伝わってくるが、マゼールブーレーズではダメか、と言われれば、そんなこともない。
 では、ロト=シエクルはなぜ、膨大な手間暇をかけて1913年の演奏スタイルの復元ということを目指したのだろうか?
 (1)で書いたとおり、それは何と言っても、その作業が知的に面白いからだと思う。だが、私にはもうひとつの理由が思い当たる。それは、彼らが演奏のマンネリズムと戦っているということだ。
 クラシックと呼ばれる西洋音楽の世界では、あきれるほどに、限られたレパートリーが繰り返し繰り返し演奏されている。そのなかで、いつもの曲をいつものやり方で演奏することによるマンネリズムに陥らず、新鮮なモチベーションを維持するというのは大変なことだろう。そして、いかに名曲といえども、新鮮なモチベーションなしで聴衆を感動させることは難しい。そんな中で、楽譜を校訂し、時代考証を更に厳密に行い、楽器まで復元するという作業が行われるのではないか?そうすることで得られるものは、初演当時の曲の響きであるよりは、主体的で緊張感に満ちた新鮮味のある演奏である。
 これは演奏家だけではなく、聴衆の側でも同様である。だからこそ、ロト=シエクルのみならず、後から後から登場してくる一種ペダンティックといえるようなことを試みた演奏に、人が目を向けるのであろう。かく言う私も、そんな人間の1人だ。

 そしてまた、このことは商業主義とも深く関係するだろう。ライブの価値が減じていくことはないだろうが、録音は非常に質の高いものがたくさん蓄積されているため、新しいものの必要性がなくなってきている。例えば、ベートーヴェンの第9を考えてみると、私などは、フリッチャイガーディナーの演奏(録音)くらいがあれば、もう他はなくてもいいな、と思う。そんな人間に新しい録音を買わせるためには、どうしても演奏の質だけではない、何かキャッチフレーズになるような目玉が必要なのだ。「『春の祭典』の初演を復元!」というのは、目玉になり得るコピーだ。
 ロト=シエクルの試みを意識的に聴き取ろうと努力することで、改めて「春の祭典」という曲に向き合えたことには価値があった。だが、このような試みは間もなく限界に達する。その時、演奏家は、聴衆は、いったいどのようにしてモチベーションを作り出すのだろうか?(完)