「恋は罪悪ですよ。」

 塩釜神社の境内では、今日、子福桜の花が開いた。昨日の河津桜に続いて2種類目である。びっくり!
 それはともかく、今年度も2年生の現代文を担当している。昨年度は普通科だったが、今年度はビジネス科(2クラス)だ。普通科の現代文は3単位だが、ビジネス科は2単位である。しかも、前任者(1年次の担当者)がやっていたことを踏襲して、毎時間、漢字の小テストをし、前時にやった小テストの返却・解説をした上、生徒が順番に気になった新聞記事を紹介してコメントを付け、それを全員に向かって発表するということをしたりしていたので、教科書を読む時間がなかなか取れない。1年次は国語総合で4単位だったからまだよかった。それと同じやり方を2単位の現代文でするのが間違いだった、と思った時には後の祭り。授業は遅々として進まない。加えて、前回の考査(後期第1回=11月末)以降は、修学旅行がある、インフルエンザによる学級閉鎖がある、で、2月に入ってから、わずか5時間くらいで漱石の「こころ」を扱う羽目になった。
 教科書には『こころ』下「先生と遺書」の一部しか採録されていないとはいえ、上下2段組で26ページもある。朗読をすれば、丸々2時間以上かかる。ということは、それ以外で使えるのは3時間くらい、ということになる。無理と言ってしまえば、無理である。しかし、何しろ『羅生門』『山月記』とともに、あらゆる会社の教科書に採録されている定番教材である。その内容は、もはや国民の共通教養とでも言ってよいであろう。大人になってから、どこで、どんな高校の卒業生と出会っても、「こころ」と言えば、「ああ、あれね」と言える状態を作っておくことは必要に思われた。よし、漢字の小テストと新聞レポートやめて、5時間で「こころ」やるぞ。
 何しろ5時間なので、昨年度と違って(→昨年度のやり方)教科書引用部分全体の朗読はした。その上で、Kの遺書にある文言「もっと早く死ぬべきだのに、なぜ今まで生きていたのだろう」の「もっと早く」とはいつのことと考えられるかという問いを立て、それに対する自分なりの答えと共に、初読の感想を書かせた。
 生徒の書いた作文に、「覚悟」という繰り返し出てくる単語に注目した意見が多かったので、「覚悟」とはどのような覚悟か、Kの本心(=たいてい分からない)がどのようなもので、どこが私の憶測なのか、それにKの信条や性格を重ね合わせながら、単純に恋に破れて自殺したというだけの物語ではないことを確認しておしまい、である。生徒の読み取りを待ちきれずに、私が一方的に解説をしただけの部分も少なくない。
 後期第2回の考査問題の末尾に、授業の感想等を書く欄を作っておいたところ、意外なほど多くの生徒が、「こころ」は面白かったと書いていた。たった5時間ほどの授業で、感想を書かせるのは酷かな、と思っていたのだが、それを見て、授業時数が少なかったため、平常点のネタにも困っていることだし、と、考査明け最初の時間に、25分間でB6版の紙に感想を書かせることにした。非常に真面目な生徒達なので、手を抜くことなく紙を文字で埋めた。そんな中に、次のような作文があった。

「これが本当にあったら悲しい物語だなあ、と思います。なぜなら、この作品には悪人がいないからです。好きになるというのは、人間の子孫繁栄には必要なことであって、2人がたまたま同じ人を好きになってしまって、結果こういう風になってしまっただけであって、誰が悪い?と問われると、誰も悪くないんです。だからこそ、悲しい物語だと思います。」

 これはなかなか鋭い指摘だな、と思った。読み取ることはぜんぜん難しくない。やがてKを出し抜いてお嬢さんとの婚約を決めてしまう「私」は、絶えず良心の呵責に苦しんでいるから悪人とは言えない。どうすればKに恋を諦めさせることが出来るか、ただひたすらそんなことを考えているにしても、恋敵となってしまった以上、非難するのは酷である。確かに、悪いのは「私」であるよりは、むしろ「恋」であろう。善人ばかりが集まっているにもかかわらず、それぞれが破滅へ向かって進んで行く。
 「恋は罪悪ですよ」。上「先生と私」の中で先生(後の「私」)が私に向かって語る言葉である。教科書の冒頭に置かれた「前書き」や「省略部分のあらすじ」には、この言葉が引用されていない。「恋や財産について感慨を込めて語りかける『先生』」としか書かれていない。だが、恋は人間の心を狂わせ、どんな善人にも道を踏み外したことをさせてしまう。その意味で「罪悪」だ。書かれていなくても、おそらくこの生徒にはそのことが分かっている。とはいえ、それは本当は「罪悪」と言えない。肉食獣が他の生き物の命を奪うことが「悪」ではないように、「恋」というものの自然の摂理なのだ。
 「恋」というものに振り回され、苦しみ、自らを追い込んでいく「私」とK。確かに、彼らが善人だからこそ、「恋」に追い詰められた彼らの姿は悲劇なのだ。生物の自然である「恋」が、社会的動物としての人間と矛盾する。そこに悲劇性の本質を読み取る感性は鋭い。