医療はオプション

 東京都福生市の公立福生病院で、人工透析を中止したということがずいぶん話題になっている。人工透析を受けていた患者が、医師から治療を止める選択肢を提示され、それを受け入れて治療を止めた結果死亡した、というものだ。他に、透析の必要が生じながら、最初から治療をしなかったために死んだ人もいて、合計24人の人が死んだ、という。透析を止めることについての、日本透析医学会のガイドラインに必ずしも従っていなかったことなどあって、相当な批判がわき起こっているようだ。さて、この問題をどう考えるべきだろうか?
 医師、有識者、マスコミがいかにも批判的な意見を並べている割に、一般人による批判に接する機会が少ない。「炎上」まで行かずとも、些細なことでヒステリックに騒ぐ人の多く見られる昨今である。あくまでも私の主観だが、一般人の冷めた反応は、透析中止の選択肢を提示した医師に対して、肯定的な見方をしている人が多いことを意味するのではないだろうか?
 今の世の中、医療が発達しすぎたおかげで、望む以上に生きざるを得ない情況が生じることが多い。何十年後かに、日本人の死因の第1位は自殺になるだろう、という予測が為されているという話も聞いたことがある。生きることを苦にする情況は確かにある。それでいて、医師は責任を問われることを恐れて、積極的な医療行為の中止には踏み切れない。

 一方、自殺は怖い。苦しいのも嫌だ。となると、医者が平穏に死なせてくれるのが一番いい。果たしてそんな医者はいないだろうか?倫理だの使命だのいう小難しいことは言わずに、ほどほどなところで見切りをつけ、あるいは死にたいというこちらの意向をくみ取ってくれて、安らかな死に導いてくれる医師がいて欲しい。そんな思いを持つ人は既にたくさんいるだろう。間違いなく、今後益々増える。
 今回の事件(取り上げられ方)で、福生病院も透析の中止は出来なくなっただろうが、仮に同様のやり方を継続していたら、あちらこちらから患者が転院を希望してやって来る、という事態も起こるのではないか、と私は想像する。
 私は、透析だろうが手術だろうが、医療行為は全て患者のオプションだと思っている。患者にとって受けることが義務であるような医療行為は存在しない。実際、私がかつて医者通いをしていた時にも、途中から医者に何も言わずに通院を止めてしまったことがあったが、医者が追いかけてきたりはしなかった。それでいいのだ。

 今や素人が医療についての基本的な知識を得ることは簡単である。人工透析を中止すれば、短い期間で死に至るとか、人工透析だけではなく腹膜灌流という方法もあるとか、それくらいのことは、自分の病気をなんとかしたいという意志が多少なりともある人なら、医師に説明されなくても調べて知っているのが当然、といったことである。その程度の知識さえ持たず、医師が説明してくれなかった、などという人がいたら、その人は生への執着にそもそも問題がある。

 では、今回の患者も、自分で透析に行くことを止めればよかったのであって、医師が選択肢を提示したのは余計なお世話だった、と言えるのかどうか?他の病気と違うのは、透析に至るまでの経過も含めて、医師と患者との間に長くて深い関係があったであろうということ、透析を止めた後の安らかな死に至るフォローをしてもらうためには、医師との関係を断つことが出来ない、という点にあるだろう。
 今回の福生病院のことで、例えば、医師が「透析を止めても簡単に死んだりしませんよ」などと嘘をついていたとしたら問題だ。透析の際に、こっそり毒薬を注入して殺して下さいよ、などという患者の要望に応えたりしていたら、それこそ大問題だ。しかし、実際に行われたことは、治療を止めるということだけである。医師が患者にどのような説明をしたかはよく分からないし、患者が「やっぱり透析を受ける」というような、中止の撤回の意思を示していたという話もあって、その辺については事実をはっきりさせる必要はあるかも知れない。
 超高齢化時代にあって、医師の価値は患者の命をどれだけ延ばせるかにかかっている、などという考え方は捨てるべきである(この話は癌の終末期医療の問題で、もう20年か30年、もしかするとそれ以前から問題になっているのだけれど、今回の問題を見ていると、それが古くて新しい問題であることが分かる)。医師は人の死にどれだけ積極的に関わってよいのか、人が自分の死を選ぶことはどこまで許されるのか・・・これらの問題を放置してはならない。福生病院の医師に対する批判は、医療関係者の保身に過ぎないかも知れないのである。