防災は全員の総合力、のはず。

 先日、例によって東日本大震災後の人間の動きについて、悪口雑言を書いたが、その後、今年初めて卒業生が出た多賀城高校災害科学科に関する新聞記事を読んだり、来年度の防災主任を誰がする、といったような勤務先での議論を聞いていて、むずむずとした違和感を感じた。違和感の正体を見極めようと考えて、そういえばこんなことは書いたことがなかったな、と思ったことがある。それは、防災は臨機応変の総合力であり、全員がスキルを持っていなければならない、という問題だ。
 災害というのは、いつどのような形でやって来るか分からない。想定外が存在することは、絶対に想定内だ。専門性というのは、高めれば高めるほど一部分に特化していく。
 また、例えば、職場で防災主任を決めたとする。宮城県の学校は、全て防災主任という係を置くことが義務づけられていて、これは主任手当支給対象となる、それなりに重い地位である。しかし、防災主任があまり重要ポストになってしまうと、「防災主任任せ」という意識が必ず生まれる。現在の勤務先に、そんな意識があるとは思えないが、それはそもそも「防災」の必要性を身に迫って感じていないから、というだけのことだ。災害科学科も同じこと。私はその卒業生に高い専門性など期待していないが、期待した日には、逆に「災害科学科卒業生頼み」という現象が生じてしまう。
 冬山に行く時に、雪崩に巻き込まれた時を想定してビーコンという機械を身に付け、ゾンデ棒という埋没者捜索用の棒を持つ。パーティーの全員だ。ビーコン係とか、ゾンデ係とか、スコップ係とか分けたりは絶対にしない。なぜなら、雪崩に巻き込まれるのが誰かは予測できないからだ。誰が巻き込まれ、誰が巻き込まれずに済んだとしても、巻き込まれなかったメンバーが直ちにビーコンやゾンデ棒を使って捜索を開始できることが大切だ。パーティーの中に、雪崩時捜索係を置くことは、無意味であり危険である。
 これは何度か書いたことだけれども、平時と非常時とを比べれば、圧倒的に平時の方が長い。巨大津波の被害を受けたことで、実際にはあまりにも限られた非常時対策に意識を向けるあまり、平時の生活が乱されては大変だ。
 どうも世の中の災害対策というのは、災害時への危機感で平時を縛り、専門家を作ることで1人1人の意識を低め、災害時に発生する実に様々な現象をばらばらに分けて対応を考えているようだ。
 いつ、誰が無事に生き残っても、被害者を助け、自らも生き延びられるようにするのは総合力だ。世の中の防災対策はそれに逆行するのではないか。そして、総合力を育てるのは総合的な教育と成長であり、それは学校の全て教科を万遍なく学び、ののびのびと自由に遊び、人と交わることの中でのみ培われていくのではあるまいか?目的へ向けた極めて短絡的で直線的な思考が、現在のような防災教育や係を作っているとすれば、それはやはり、世の中に蔓延する目先の利益主義と根を同じにする。何か特定の分野だけが上手くいく、もしくは上手くいかない、ということはやっぱりないのだな。