節電が先だ

 一昨日、我が家の水仙が開花し、昨日は梅が咲いた。季節と関係あるのかどうか分からないけれど、今朝は、珍しくも、庭をシジュウカラが歩いていた。ウグイスは元気よく鳴いている。今月初め頃のぎくしゃくした鳴き声と違って、すっかり鳴き慣れた感じだ。
 そういえば先週15日、女川原発再稼働の是非を問う住民投票条例案が、県議会で否決された。市民団体が集めた11万あまりの署名に基づく直接請求を受けての議論である。
 昨秋、私も署名をした。しかし、署名をするに当たっては、いささかの葛藤があった。県や国のような巨大組織にあっては、間接民主制=議会制民主主義を取ることが合理的だとの思いがあるのと、住民投票にも膨大な費用がかかるからである。しかし、その署名に応じないことは、自分が原発の再稼働を容認しているような気がして、署名に応じたのである。したがって、県議会が住民投票に応じなかったことについて不満はない。署名にも、人それぞれ、いろいろな思いがある。
 ところで、石巻では、一昨年、二酸化炭素排出について悪名高き石炭火力発電所が操業を開始した。聞くところによれば、近いうちにバイオマス発電所の建設が始まるらしい。廃材利用とはいっても、廃材がそれほどたくさん継続的に発生するわけもなく、一度運転を開始してしまえば、廃材が確保できなくても、廃材ではない資源を消費して、強引に運転を継続することは目に見えている(→この件について)。
 それぞれについて批判や反対があるのは当然だし、なんとかしてそれらをストップさせたいという思いは、私も人並み以上に持っているつもりである。しかし、そもそも、原発にしても、石炭やバイオマスによる発電所にしても、現在の膨大な電力需要があるからこそ生まれてきたものである。日頃の電力供給を確保し、需要が増えた瞬間にも停電を避けようと思えば、むしろ発電量をやや過剰な状態にしておく必要があるのは当然である。電力供給が不足すれば、電力会社や政府が厳しく非難される。原発の再稼働も石炭・バイオマス発電所の建設も、そのような文脈の中で考えなければならない。
 ところが、原発の再稼働や、石炭・バイオマス発電所建設に対する反対の声をよく耳にする割に、節電への呼びかけを耳にする機会は少ない。耳にする機会があっても、その主体は政府や電力会社だったりする。○○反対派ではない。
 あくまでも私個人の主観だが、たびたび言うように、今の日本人の生活はあまりにも贅沢だ。これだけ温暖化が進行し、それによる可能性が高いといわれる異常な気象現象が頻発しているにもかかわらず、温室効果ガス排出と表裏一体の関係にあるエネルギー消費を抑えようという意識は希薄、いや、「極めて」希薄である。
 「電気」に限って考えても、果たして、24時間営業の店はどうしても必要なのか?夏の炎天下でも、冬の冷え込んだ朝でも、温冷両方の飲み物が買える自動販売機が、なぜこれほどたくさん設置されているのか?東京と名古屋を40分あまりで結ぶというリニア新幹線が、どれくらいの電力を消費するか、人々は意識しているのだろうか?少なくとも宮城県の沿岸部で、エアコンがなければ夏の暑さは本当に耐えられない水準だろうか?こんな疑問が後から後から浮かんでくる。
 水素も電気がなければ作ることは出来ず、太陽光発電を始めとする自然エネルギーも石油消費の上にしか成り立たない。
 楽と便利と快適とを無節操に求めておいて、発電所批判をするのは無責任であり、身勝手だ。電力消費を大幅に削減できれば、原発も石炭・バイオマス発電所も、自ずからその存在意義を失っていく。少しずつではあるけれども確実に地球を汚す石炭・バイオマス発電所よりも、一度事故が起これば致命的な被害をもたらすとは言え、温暖化問題に比べれば影響の範囲が局部的で、「その可能性がある」というレベルにとどまる原発は、まだマシだという気もする。ともかく、節電が先である。