『嫌われる勇気』・・・アドラー心理学について

 昨年の秋、ある女子生徒が「先生、この本すごく面白いんですけど、読んだことありますか?」と言って、一冊の青い本を差し出した。岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社、2013年)である。赤い文字で「自己啓発の源流『アドラー』の教え」と副題が書いてある。
 多少の拒否反応を感じたのは「自己啓発」という言葉だ。私は「生き方ハウツー本」の類いをあまり信用していない。自分の生き方は、自分で見つけ出していくしかない、と思っているからだ。それでも、せっかく勧めてくれることだし、通勤一往復くらいで読めそうだとも思ったので(本にもよるけれど、私の読書スピードはたいてい猛烈に速い)、読んでみることにした。だが、私が読んでみることにしたのはそれだけが理由ではない。彼女がぽろりと付け加えた、「なんだかアドラーの考え方って、平居先生とよく似ている感じがするんですよねぇ」という言葉が気になったのだ。
 「アドラー」という名前は、かろうじて私の知識の範囲内だった。しかし、それは哲学史の教科書か何かで、正に「目にしたことがある」という程度のものだった。何という本でその名を見たのかも憶えておらず、知識は辞書的なレベルを超えてはいない。ちなみに、手元にある『広辞苑(第5版)』で「アドラー」を引いてみると、次のように書かれている。

アドラー:ウィーン生まれの精神医学者。神経症の原因を誰もが持つ劣等感に求め、これの補償として「優越の努力」「権力への意志」を仮定。(1870~1937)」

 分かるわけがない記述だし、そもそも、いかなる思想家であれ、これだけの字数でその思想を説明できるわけなどないのだが、せめて、もう少し詳しい本で見てみようか、と思えるような記述にしてほしいものである。この記述を読んでも、絶対にアドラーに興味関心は抱かない。むしろ、劣等感を克服するために権力を目指すのか?と反感さえ覚えるだろう。
 ところが、である。学校の図書館で借りた『嫌われる勇気』を、予定どおり通勤の電車一往復で読んで、私は仰天してしまったのである。この本は、日本でも、そして翻訳が出た韓国でもミリオンセラーになったそうである。なぜこんな本の存在に今まで気付かなかったのだろう?それはおそらく、世間の人々がいいと言うがゆえに斜に構えるという、私の良くない性格があるからに違いない。
 この本は、図書館でアルバイトをする青年と哲学者の対話の形で書かれている。この対話を通して、作者は「アドラー心理学」とは何か、それを読者に理解させようとしているのだ。この本の中に書かれていることが、本当にアドラーの思想を正しく伝えているかどうかは確かめられない。だが、そんなことはどうでもいいと思える。仮に作者が、アドラーの名前を借りて、自分たちの思想を述べているのだとしても、大切なのは、それがアドラーの思想かどうかではなく、この本で描かれている思想が優れているかどうか、私たちの人生に力を持つかどうかだけだからである。
 その点において、この本は非常に優れた本に思えるし、この本が本当にアドラーの思想を描いているとすれば、その思想もまた優れたものに思える。私はこの本に取り憑かれた。私は電車の中で2度この本を読んだ後、書店で続編『幸せになる勇気』(2016年)と合わせて2冊を買い求め、半年の間におそらく30回くらいは読んだのではないか?と思う。特に『嫌われる勇気』は、既に表紙がよれてきた感じさえするほどだ。
 生徒も言うとおり、確かに、私とアドラーの考え方(=あくまでも、この本の中に書かれている思想がアドラーが提唱するとおりのものだったとして)には似ているところが多い(このブログの日常的な読者の方はどう思われるだろう?)。しかし、それは、私とアドラーには限らない。私が共感する、あるタイプの思想なのだ(→参考記事)。だが、アドラーにあって他のよく似た構造を持つ思想にないものは何か?それは、これら2冊のような優れた解説書である。そう言いたくなるほど、この本は良くできている。
 自分の思想と似ても似つかぬものが書かれた本を読んでも、心に響くものはない。おそらく、私の頭の中に、おおよそはアドラーと一致してはいるものの、明瞭に整理し切れていない、もしくは意識化できていなかった部分というのがあって、この本を読んでいると、それが実にはっきりとした形になってくるのを感じるのである。ああ、確かにそのとおりなのだ。私が考えていたのもそういうことなのだ。・・・本を読みながら、私は何度そのように思ったことか。ここには「読書とは何か」という問題もよく表れているようだ。
 実践を伴わない思想には価値がない。幸か不幸か、私は人間関係のるつぼとも言うべき場所=学校に身を置いている。1学年で新学期を迎えるということで、アドラー心理学というものが、そこでどれだけ力であり得るのか、まっさらな状態で試し、批判的に再思考してみることができる。それはとても楽しいことだ。