あふれるゴミの苦しさ

 10連休である。私は昨日だけが仕事。現在、顧問を務めるインターアクト同好会(ボランティア部)というのが、塩釜市民祭りの手伝いに行くので引率した。残りの9日間はお休みである。
 お祭りの会場というのが、近年私は大嫌いだ。恐ろしいほどのゴミを目の当たりにすることになるからである。何を売るにも清潔第一、手間もかけない。そのためにはひたすら過剰に使い捨て、使い捨て、使い捨て、である。何でも買ってきて、一度でも使っていらなくなれば捨てればいいさ、という感覚が私には分からない。
 ボランティア生徒だって、エコステーションという名前のゴミ回収テントでのお仕事だったのだが、わずか2時間か3時間で交代するボランティアに、1人1人クリーニングしたジャケットが与えられ、軍手をした上からビニール手袋をはめ、更にトング(火ばさみ)まで持たせられる。
 エコステーションに自らゴミを持ち込んでくる人には、ご褒美としてTシャツをプレゼントし、ゴミ袋の配布もしている。ボランティアには弁当が支給されるのだが、大きなビニール袋に、弁当とお手ふきとペットボトル入りのお茶が入っている。ゴミの塊みたいなものだ。まったく「エコ」どころの話ではなく、人間の「エゴ」そのものである。
 大きなゴミ袋に、ゴミは見る見るたまっていく。私にはこの消費を見るのが苦しい。同じ理由で、最近はプロ野球も見に行かない。まぁ、私が主催者に名を連ねるラボも、コップやお皿(紙)が使い捨てで、オードブルの器も使い捨て、毎回それなりのゴミを出すわけだから、人のことばかり言うのも気が引けるが、どう考えても、やはり「節操」のレベルが異次元なのである。
 前回、原発の再稼働に反対するよりも節電が先だろ、という河北新報への投稿を紹介した。何人かの方から、「読んだぞ」というメールをいただいた。その中に、「まったく同感だ。だが、24時間影業の店にしても、自販機にしても、それを止めさせる方法などないではないか。」という意見があった。
 方法はある。二つだ。一つは、陳情なり請願なりして、政治の力でそれを禁止させるのである。しかしながら、この方法は非常に難しい。コンビニ業界なり、飲料メーカーなりの猛反対が予想されるだけでなく、手続き・合意形成も面倒だからである。禁止という極めて強権的な手法がいいとも思えない。もうひとつの方法は、みんながコンビニも自販機も利用しないことである。売れなければ、経営者は現在のような営業の仕方を止めるだろう。民意の高まりを表すいい方法だ。
 とは言え、結局のところ、どちらの方法も現実問題としてはほとんど可能性を感じない。圧倒的多数の人々にとって、そんな面倒なことをするよりも、いつでも店が開いていて、いつでも自販機で温かい、もしくは冷たい飲み物を買うことができ、リニア新幹線で東京から名古屋まで40分で行けた方がいい。そんな欲望の前では、大量の電力消費に思いを致すなど、むしろ愚かしいことだ。目先の利益のために実行可能な最善の方法を実行する。人々にそれ以外のやり方を求めることは難しい。
 私が胡散臭いと思うのは、原発反対派だって同じ穴の狢だ、ということだ。彼らだって、安逸・便利な今の生活が手放せない。しかも、原発再稼働に反対することへの共感は獲得できても、節電=生活レベルの低下には反発されるということも分かっている。だから、原発再稼働反対だけなら言えるが、節電の呼びかけはできない。温暖化対策の諸策と同じで、問題とされるのは常に現象の末端である。根源にはあえて触れない。必要なのは「頑張っている気分になる」ことであり、実効ではない。もちろん、そんな人にとっては、お祭りのゴミと原発は無関係。だけど、やっぱり関係するのだよ。根っこにあるのは目の前の利益を絶対に手放せないという心性だ。原発の再稼働にだけ反対するのは欺瞞である。