一体化する流儀

 昨日、拙著の3校を返送し、少し身軽になった。今日からまだ休みが7日間=1週間もある。この1週間あまり、酒を飲みに行くこともなく校正に没頭していたのだが、1日だけ作業を休んだ。26日(金)、「トヨタ・マスタープレイヤーズ、ウィーン」の演奏会に行ったのである。昨年は仙台公演がなかったので、2年ぶりということになる。私がこの団体の演奏会に行くのは、ベルリンフィルメンバー主体で行われた最初の年から数えて、11回目。皆勤賞のつもりだが、調べてみれば途中7年間も空いていたりするので、もしかすると皆勤ではないかも知れない。
 今年のプログラムは、モーツァルトコジ・ファン・トゥッテ」序曲、ピアノ協奏曲第23番(独奏:北村朋幹)、グリーグ組曲「ホルベアの時代より」、そして再びモーツァルト交響曲第38番「プラハ」。
 毎回思うのだが、本当に素晴らしい。演奏者の1人1人が名手であるというだけではなく、アンサンブルの妙というものをこれほど感じさせてくれる集団はなかなかない。私は昨年11月、発売と同時に一番安いB席(3500円)のチケットを確保していたが、この演奏会は一番安い切符の発行枚数がとても多いらしく、いつも一階席後方のいい所だ。しかも、今回も全ての券種で当日券が発売された。これほど「安くて美味い」、いやいや「安くて上手い」アンサンブルに人が殺到しないというのは不思議なことである。「トヨタ・マスタープレイヤーズ」という軽薄な感じも漂う看板に、何か誤解をしてしまうのではないか?と想像する。
 メンバーは30人。今年はウィーンフィルから11人、ウィーン交響楽団から5人、ウィーン国立歌劇場の関係者(客演奏者など)が6人、ベルリンフィルから2人、その他6人である。
 演奏者の1人1人が、自分の「分」をよくわきまえ、出しゃばらず、極めて適切に音をコントロールしている。それでいて消極的との印象もなく、必要な場面での自己主張も完璧だ。ホルンを聴いていると、そのことが特によく分かる。アンサンブル全体が一つの楽器として機能し、見事な音楽を奏でる。私に限って、という言い方も偉そうだが、ウィーンフィルのメンバー主体という看板に惑わされて、実際以上に上手く聞こえているということはないと思う。コンサートマスター、フォルクハルト・シュトイデのリーダーシップの功もあって、同じく指揮者のいないオーケストラ、オルフェウス管弦楽団で感じるような没個性の退屈を感じることもない。
 亡くなった指揮者・岩城宏之の『フィルハーモニーの風景』(岩波新書)という本で読んだ話ではなかったかと思うが(今なぜか手元になく、確かめられない)、確かこんな話があった。「演奏の途中で、誰かが少し間違えて音がずれると、オーケストラのメンバーがその間違えた奏者に付いて行ってしまい、指揮者の棒が演奏からズレる。普通なら、指揮者の棒に合わせるから、間違った人だけがズレる。これは、楽員同士がどれだけよく音を聴き合っているか、ということを物語る。こんな現象は、ウィーンフィルでしか起こらない。あまりにも素晴らしい一体感であるため、自分の指揮棒がいわば空を切る形になっても幸福感を感じる」。
 今や、地方のオーケストラでも、1人の楽員を募集すると世界中からたくさんの応募があるという時代である。どこのオーケストラでも演奏は高水準だ。仲間同士で音を聴き合い、完成度の高いアンサンブルを作り出すということが、ウィーンフィルのメンバーにしかできない、などということがあるとは思えない。演奏能力の問題ではなく、思想もしくは流儀の問題と言っていいだろう。
 名人揃いとは言っても寄せ集めの小オーケストラである。しかも、メンバーはおそらく皆、超多忙な人たちだ。その流儀を徹底させるための練習時間というのはどれほどあるのだろう?おそらく30人という規模も、アンサンブルの妙を味わうにはいい規模なのだ。
 今年の白眉は、意外にもグリーグであった。弦楽パートの音の美しさというものが、存分に発揮された演奏だったと思う。アンコールはお決まりのヨハン・シュトラウス。今年はポルカ・シュネル(速いポルカ)「テープは切られた」。いつもいつものことながら、体に染みついた音楽の力に唖然とする。
 音楽を聴きに行くのは年に1度だけ、と制限されたとしたら・・・私はおそらくこのアンサンブルの演奏会を選ぶ。