輝くステージ・・・吹奏楽部の定演

 昨日、実家から石巻に戻ってくる途中、多賀城市文化センターで行われた塩釜高校吹奏楽部の定期演奏会に寄り道をした。旧塩釜高校と塩釜女子高が統合して10年目で「第9回」。それは2011年に東日本大震災のために定期演奏会を開催できなかったからである。「創部10周年記念コンサート」と銘打たれていた。
 吹奏楽部正顧問である音楽科教諭W先生は1学年の担任で、職員室の席が私の隣である。そのため、日頃いろいろとグチを聞くことが多い。W先生の言葉だけ聞いていると、さぞかしメチャクチャな演奏会になるんだろうなぁ、と心配になってくる。
 ところが、いざ本番のステージに接すると、いつもいつものことながら、素人の音楽っていいなぁ、若いっていいなぁ、という幸福感に満ちあふれてくる。先日のウィーンのアンサンブル(→こちら)とはまったく別種の、いわば音楽の原点に対する感動だ。
 W先生のあのグチはいったい何だったの?定時退勤を心がけている私は、吹奏楽部が全体で音を合わせているのを耳にする機会がほとんどない。私が日頃耳にするのは、たいてい、なんとも頼りない音で楽器・楽譜と戦う個人やパート毎の練習だけだ。そのため、定期演奏会の本番ステージに接すると、そのあまりにも大きな差に当惑する。だからなおさら、ステージの彼らが輝いて見えるのかも知れない。
 スポーツは人を狂わせる。芸術も人を狂わせる。しかし、スポーツのそのような力に対して強い警戒感を持ち、絶えず懐疑的、批判的に接している私が、音楽を始めとする芸術に対しては、かなり無防備で肯定的なのはなぜか?おそらく、「勝負」とは違って、その価値が客観的、絶対的には評価できないからである。相手があって、その相手との間に優劣を付けるということもないからである。
 もちろん、スポーツとて、勝ち負けに関係なく、そのひたむきなプレーが人を動かすということはあるのだけれど、やはりスポーツは本質的に「勝負」であり、他者との競争である。芸術はそうではない。人間の感情や個性というものを真剣に見つめたところに成り立つ。評価はバラバラだ。私は、そこに純粋性の根源を見る思いがする。
 創部10周年ということで、第3ステージでは、多くのOBも演奏に参加していた。曲と曲の合間に、そのOBに対するインタビューが行われた。その中に、自分たちの時は定期演奏会のための合宿で、夜中の2時まで体育館で練習をしていた、という話があった。もちろん、今はそんなことは行われてはいない。
 W先生の挨拶の中にもあったが、部活動を取り巻く環境の変化で、練習時間は大きく減少しているらしい。言うまでもなく、部活動に関するガイドラインというものが策定され、練習時間を縮減させるように県からの指導が入っているからだ。
 部活と教科の勉強の本末が逆転するのはまずい、「部活動命」という価値観がいいとも思えない。これらは、日頃私がよく言うことだ。しかし、吹奏楽部の演奏会などを見ていると、そうそう半端な気持ちであのステージを作れるわけがなく、がむしゃらに無理をしながら練習や企画をし、それによって感動も成就感も成長も実現するのは確かだ。部活に制限を加えるべきではない、との思いが兆してくる。
 だが、誤解しないで欲しい。私が繰り返している部活動に関する冷たい発言は、基本的に「大人の都合による部活動」もしくは「部活動に対する大人の介入」に対してである(→参考記事=河北新報への投書)。今回の演奏会を見ていても、指導者(顧問)の役割というのは大きいのだけれど、教科学習のハードルを妥協なく設定しておいた上で、生徒には自分たちの納得するまで、好きなだけ自由に活動させてやりたいなぁ、とますます思った。
 演奏会は約3時間に及んだ(OBインタビューによれば4時間を超えた年もあったらしい!)。高校の吹奏楽部の演奏会は、以前いた学校もだったが、常に長い。原稿用紙5枚の作文を、推敲することで3枚にするからこそ文章が磨かれるのと同様、やりたいことがあふれているのはよく分かるが、それを2時間に圧縮すれば更にいい演奏会になっただろう。