Tr,平居の学年通信

 2月に今年度の校内人事の調整をするに当たり、私の希望は1学年担任であった。久々に学級通信書きでもするか、という意欲も持っていた。ところが、既に何度か触れたとおり、学年主任になってしまった。クラス担任をするつもりで一度動き出した心の向きを変えるのはなかなか大変である。
 3月の半ば頃にあきらめが付いて、まぁ、その後はそのつもりで動いてきたのだが、ある時、2学年主任から「私は去年、毎週〈学年便り〉出していましたよ」と言われ、はっとした。そう言えば、世の中には「学年通信」というものもあるが、どうしようかなぁ?
 私が1学年主任になったのは管理職の指名である。1学年の担任スタッフからお願いされたわけではない。従って、私の気持ちとして、私には権限がないのである(逆の考え方=管理職の指名だからこそ権限を持つと考える人もいるだろう)。できるだけ担任団の邪魔をしない、それこそが私にとって必要なことだ。だから、私が「学年通信」を出して勝手なことを書くことが、担任にやりにくさを感じさせるようになったら嫌だな、と思った。
 私は学年の会議でこの件についてスタッフに相談した。その結果、特に異論もないので、よし「学年通信」を出してみよう、「学級通信」と出来るだけ重複がないように、私自身の考え方を前面に押し出し、担任が教室で必要に応じて利用できる、無視もできるという形にしてみよう、と思うようになった。ちなみに、私が学級通信や学年通信を書くべきだと思っている理由、すなわちそれらのメリットというのは次のとおりである。

・自分が何を考え、何をしようとしているのか客観視し、その是非を考えるきっかけになる。
・話題を探して校内の様子をよく観察するようになる。
・生徒の頭を揺さぶることができる。
・学校の様子なり私の考えなりを保護者に伝えられる。
・自分の考えや学校の様子が記録として残る(=反省・学習の材料になる)。

 平居の妄言なんて生徒は読むの?という声は常にあるだろうが、心配ご無用。上を見てもらえば分かるとおり、誰も読まなかったとしても1、2、5番目の目的は達せられるし、そもそも「学ぶ人は何からでも学ぶ、学ばない人は何があっても学ばない」のである。教師の責任として、学ぶための材料は常に提供する、読んで学ぶかどうかは本人次第、でいいではないか。また、親に届くかどうかは、夏休みの三者面談あたりで探りを入れれば分かり、それが親子関係や、その家の雰囲気を見極める材料になる。それも4番目の範囲である。
 次に考えたのは、昔の学級通信(「担任所感」、いわゆる「Tr,平居の月曜プリント」というやつ)のように手書きにするか、PCのワープロソフトを使うかだ。
 文明というのは恐ろしいもので、易きに流れる人間につけ込むように、人間を際限なくダメにする。私も日常的にPCで文字を書く機会が増えたことで、もはや手で文字を書くというのがつらいと感じられるようになってしまった。手も疲れるし、何より推敲が難しい。誤字を書く可能性も高まる。かつては「手書き支持」が非常に多いという実感もあったが、今、塩釜高校生やその保護者も同様に感じるとは限らない。
 あれこれ悩んだ末、結局、おっくうがる自分に鞭打って、従来通りの手書きをすることに決めた。理由は今は書かない。いずれその理由は明らかにすることにする。

 裏面は従来どおり、新聞や書物からの引用だ。何しろマンモス校なので、発行部数は、教員用も含めて驚きの400!昔と違って、残業嫌い、持ち帰り仕事嫌いになっているので、日曜日の夜に自宅で学年通信書きをする気になどならない。学年通信を書くのも勤務時間内である。そのため、発行日は基本的に週の終わり(木か金)になりそうだ。月曜日ではない。「週に1度」も目安にすぎず、特にこだわる気もない。
 というわけで、このブログも原点に立ち返り、「学年通信」を公開する場にしようかと思うが、今やこのブログがあまりにも肥大しているので、なんだか「学年通信」(実際には、昔「担任所感」と書いていたところに「学年だより」と書いている)は字数が限られすぎている上、あちこちに気を遣いながら書いていることが感じられて物足りない。過去の記事との重複も増えそうだ(それに気が付くブログの読者はごく少数だろうが・・・)。折に触れ、ある程度の一般性・普遍性を持ち、公開に堪えると思われる記事があれば、一般の方にも意味が通じるように若干の言葉を補って公開しようか・・・。今のところ、そんな風に考えている。
 今年度になってから1ヶ月が過ぎ、既に4枚出したが、ここに転載する気になる記事がない。もしくはタイミングを失してしまった。今日はとりあえず、そんな風にしてかつてのようなプリントが作られているということの報告に止める。