病院に連れて行ってあげよう

 東洋英和学院の院長だった深井某なる人物が、その論文や著書において重大なねつ造や盗用をしていたとして、懲戒解雇されたという出来事がマスコミを賑わわせている。これは奇っ怪な「事件」である。STAP細胞のような無邪気で未熟な「間違い」などとは比較にならない、本物の「事件」だ。
 もっとも、調査委員会は「極めて悪質」だと評したらしいが、私は必ずしも悪質だとは思わない。悪質であるためには本人の悪意というものが必要で、悪意を持つためには正常な認識能力・判断力が必要だ。規範をあえて乗り越えるところに「悪」は成立する。深井氏の場合、それがあったとは思えない。脳の病気なのではないだろうか?
 報道で最もよく語られるのは、深井氏が「カール・レーフラー」という架空の人物による架空の論文を基に論理を展開した、という点だ。「不正」「ねつ造」を超えて、明らかに異常である。
 確かに、私が自分の専門分野の論文を読んでいて、知らない研究者の論文が引用してあったとして、それが論文全体の中でよほど大きな役割を果たしているならともかく、そうでなければ、確かめることもなく、自分の無知にこっそり赤面して終わりになる可能性が高い。仮に典拠を確認しようとしたとして、探せなかった場合、相手は大学長で昨年度の読売・吉野作造賞をも受けたという、斯界の権威と言っていいような人物である。やはり、探しきれない自分の未熟を恥じてそれっきり、ということになるだろう。
 とは言っても、それは研究者の端くれにさえならないような私の話。多くの研究者の目に触れた時に、最後までだまし通せると思うとすれば、やはりそれはまともな感覚とは言えない。
 雑誌論文ではなく、単行本の場合は査読がない。よほど優秀な編集者がいれば別だが、そうでなければ、内容、まして典拠に関するチェックはほとんど行われないだろう。だが、ジャーナリスティックな本ならともかく、学術的な本であれば、このこと自体はあまり問題ではない。なぜなら、ゼロの状態から本が1冊書かれるということはほとんどなく、たいていは査読を経た幾つかの論文があり、それに基づいて執筆されるからである。
 とはいえ、査読だって万全ではない。専門性が高ければ高いほど、人の論文をチェックするというのは大変な作業だ。一昨年だったか、京都大学望月新一教授が「ABC問題」を解決させたとして書いた論文が、5年をかけた査読を経て、ようやく発表にこぎ着けたというニュースが流れた。私の査読される側としての経験からしても、査読者の苦労、苦労してなお読み切れているとは言えないことを感じることは珍しくない。
 だが、発覚もしくは解雇以来、ちまたで盛んに語られているような不正対策に、私は否定的だ。査読には真面目にやれば膨大なエネルギーが必要なはずだ。ごくごく一部の人の問題行動のために、日頃から研究に制約が加えられ、労力が割かれるのは、非常時のための「防災」によって平時の生活を破壊するのと同様で、決して賢い選択ではない。
 基本は研究者の良心に期待することだ。これしかない。その上で、不正やねつ造を予防するための方法を考えるのではなく、それを実際にした人間に、研究者生命を奪うほどの厳しい制裁を科す方がいい。とにかく、わずかな不正を根絶するために、多くの人の日常的な研究活動そのものの活力が失われるような方法をとること、それが最下策である。深井氏に関しては、懲戒解雇、学界追放で十分。そして、優しく病院に連れて行ってあげよう。