哲学を捨てた教員

 先日、ある会議で、今年の生徒の進路希望状況というのが報告された。各クラス毎に、4年制大学(公私の別)、短大、専修学校、就職(公民の別)それぞれの希望者が何人いるか、というものである。資料の隅に㊙と書いてある。
 例によって、私だけがかみついた。これは果たして㊙にすべき資料なのか?ということである。誰が何を希望しているかというような具体的個人情報に関するものではない。実際の受験予定でさえもなく、単に大雑把な希望者の人数が書いてあるだけの紙である。
 私は命令とか秘密というものは、少なければ少ないほどいいと思っている。ところが、最近は「コンプライアンス」とか「個人情報」とか言って、どんどんそれが増える状況にある。県教委なり校長なりが命令なり㊙の指示を出した、というならまだ分かる。そうではなくて、職員自身が過剰に反応し、いや「忖度」して、命令(職員側から見れば指示を求めること)や秘密をどんどん増やすのである。以前なら、どう考えてもただの紙ゴミだった資料を、最近はことごとくシュレッダーに通す。先日の自転車の話(→こちら)も同様だが、状況判断の中で柔軟に最善を選択していたようなことについて、すぐに「指示」を求め「禁止」を出す。
 さて、絶対に誤解して欲しくないのだが、ここで私が問題にしているのは、自転車の運転を禁止するとか、秘密にする必要性があるとはとうてい思えない文書に㊙の指示がしてあった、ということでは必ずしもない。それらに対して、私以外の教員が誰一人反応を示さなかったという点についてである。
 私はこれを恐ろしいことだと思う。「禁止」だと言われれば、素直にそれを受け入れて、生徒に指導を徹底させようと頑張る。㊙だと言われれば、㊙だとして、文書の処分をする時でもシュレッダー。果たして、それらの指示や対応が妥当であるのかどうかという問い直しが一切ない。理不尽な命令、指示であったとしても、その遂行に全力を挙げるというのは、戦前の日本そのものである。やがて、「理不尽な」の前に「どんなに」が付くようになる。
 組合の会議に出ると、次の学習指導要領のターゲットは高校だ、という話をよく聞く。小学校や中学校は、既にすっかり文科省の言いなりになるような体制が出来上がった。大学も似たようなものだ。一番「お上」の言うことを聞かないのが高校教員だ。次の学習指導要領は、その高校教員に「お上」への恭順を強いるのが最大の目的だ、と言うのである。
 本当かな?と私はいぶかしむ。「本当かな?」というのは、二つの点についてだ。ひとつは、本当に学習指導要領がそんな目的を持って作られているかな?ということであり、もうひとつは、本当に今の高校教員が、そんなに「お上」の言うことを聞かない人たちかな?ということだ。
 今や高校教員だって、校長の意向に本気で逆らえる人がいないのはもとより、そもそも、今回の自転車や進路希望調査㊙の問題によく見られるとおり、校内で行われる様々な活動についてその是非を問い直すことさえできない。それどころか、忖度=萎縮を重ねて、どんどん自分たちの行動を窮屈で狭いものにしていっている。
 身の回りで行われる様々な施策について、その妥当性を問い直すためには、学校は本来どうあるべきかという哲学が必要だ。今の従順な体制は、そもそも、そのような哲学のなさに支えられている。哲学の無い人間は、相対的な思考しかしないため、世の中が曲がり始めた時に、それを原点に引き戻すことができない。周りの様子をうかがいながら、自分がいい子になりたいという意識もあって、そのゆがみを加速させる方向にばかり動こうとする。
 これを恐ろしい世の中と言わずに何と言おうか?