「一つのメルヘン」(2)

 教科書には、教科書会社が作った「指導書」というものが存在する。授業をするための「虎の巻」というやつだ。その「一つのメルヘン」についてのページを見ると、驚くようなことが書いてある。

「主題:鉱物の結晶のような陽が射す無機的な河原に蝶が訪れると水が流れ出すという、秋の夜の幻想的な物語。」

 恐れ入る。こんなものが「一つのメルヘン」の主題だろうか?こんなことを読み取らせるために、この作品を教科書に採録したのだろうか・・・?私などは、あまりの貧しさにひどく惨めで哀しい気分になる。
 我が家には少なからぬ中原中也関係書籍がある。久しぶりで、それらを手当たり次第に見てみた。
 中也と宿命的な関係にあった小林秀雄が、その死後「一つのメルヘン」について「彼の誠実が、彼を疲労させ、憔悴させる。彼は悲しげに放心の歌を歌ふ。川原が見える、蝶々が見える。だが、中原は首をふる。いや、いや、これは『一つのメルヘン』だと。私には、彼の最も美しい遺品に思はれるのだが。」(「中原中也の思ひ出」1949年。旧版『小林秀雄全集(2)』所収)と書いたこともあり、おそらく、「一つのメルヘン」は中也の代表作として認められてきた。だが、たとえば、中村稔はそのことを認めた上で、「しかし、この作品を注釈した人を私は未だ聞いていない」と書く(「『一つのメルヘン』をめぐって」1959年。『言葉なき歌 中原中也論』角川書店、1973年所収)。「未だ聞いていない」は言い過ぎだろう、と思うが、「ほとんどない」もしくは「非常に少ない」と言えば確かなのではなかろうか、とは思う。もしくは、この作品に言及することはあっても、「注釈」ではないと言えば確かだろうか?理由のないことではあるまい。小林秀雄本居宣長の思想として語る「解釈を拒絶して動じないもののみが美しい」(「無常といふ事」)という言葉を借りるまでもなく、本当に美しい作品は解釈を寄せ付けず、したがって注釈も困難だ。
 中村は、この作品について数ページにわたる「注釈」を試み、最後に次のように書く。

「蝶がどんな象徴であるか。蝶が去った時、水が流れだすとは、どういう寓喩であるか。そうしたせんさくほど詩の鑑賞にとって無意味なことはない。詩は決して謎ときパズルではないからだ。ひとつの寓喩の解答が与えられると詩全体が解明されるような、そんな詩はもとより詩とは言えない。ただ、中原のイメージに河原がうかび、そこに陽が射し、蝶がとまり、そして蝶が去ると水は流れだしたのである。この作品の哀惜と痛恨の調べの中に、そうしたイメージを一つのメルヘンとしてうけとることこそが、もっとも正しい鑑賞の仕方ではないのか。」

 北川透が、これとよく似たことを言っている(『中原中也の世界』紀伊國屋選書、1968年)。

「この詩を何か具体的な世界の象徴と考えるほど愚かな鑑賞はない。小石や陽や蝶が何かと置き換えを可能にするにしても、そのことで詩の何かを理解したことになるであろうか。夜と陽、光と音の同時性、あるいは同位性という現実の時空を越えたところで飛ぶ蝶の影や、小川の流れを詩人とともに実感するいがいないようにこの詩は存在している。」

 分銅惇作は中村の見解を、「鑑賞論としては見識のある考え方」だとして評価している(『中原中也講談社現代新書、1974年)。私もある種の共感を覚える。だが、それは全面的な共感では決してない。
 そもそも、「一つのメルヘン」というタイトルそのものが、中也の心の中にある恥じらいのようなものを外部に対してごまかすための「はぐらかし」であると、私は考えている。その意味で、私は岡井隆が「無題に近い名称」だとすることに賛成する(『國文學』1977年10月号)。人は自分の心をさらけ出すことに恥じらいを覚える。詩人がいくら表現を求めていたとしても、基本的には同様であろう。この詩は「メルヘン」でもなんでもない。むしろ「メルヘン」を称することによって、中也はこの詩を正しく読む人間を絞り込もうとしているのである。「メルヘン」だと言って「メルヘン」だと納得するような人に、自分の詩を読んでもらう必要はない、と。
 「一つのメルヘン」に描かれた情景は、明るく透明感に満ちた美しいものである。そんな美を目の当たりにした時、人は何とも言えない「哀しさ」にとらわれる。人間にはそんな性質があると思う。不思議、というものではない。手に入らないものほど欲しくなる。欲しくなればなるほどそれが価値あるものに見えてくる。価値あるものは美しい。そんな論理を逆転させれば、美しいものに哀しさを感じることは、不思議でも何でもない。その意味で、「一つのメルヘン」は典型的な哀しい作品である。では、人が最も「哀しい」と感じるのはどのような時、あるいは、どのようなことに対してであろうか?
 それは、取り返しがつかないものに対してである。そして、究極の「取り返しがつかない」ものは「時間」である。時間は不可逆だ。そして、その中に、様々なものを包み込んでいる。中也が過ぎ去った時間の中に惜しんでいるのは、純真で幸せだった少年時代であるかも知れないし、女との関係であったかも知れない。この詩が書かれた直後に、中也は長男・文也を失う。そんなことへの予感があるかも知れない。とにかく、中也が具体的などのようなことに哀惜を感じていたかは知らないが、私にはどうしても、「一つのメルヘン」は追憶の哀しさを詠んだ詩であると思われる。(続く)