幻の新関温泉(1)

 7月14~15日、仙台一高の井戸沢小屋に行っていた。例によって、静寂の中で大酒を飲もう、というのではない。「薪バイ」と言って、冬に燃やす薪をエコーラインから担ぎ下ろす労働が主目的である。もっとも、今年は「激しい霧雨」が降るあいにくの天気で、ほとんど労働をすることはなく、結果として大酒を飲むために行ったことになった(笑)。
 しかし、山小屋に行く前にある一つの重要な寄り道をしたので、今日はそれについて書いておこうと思う。
 寄り道とは、「新関(にいぜき)温泉」の祭礼である。宮城蔵王・賽の河原近くにかつて存在したというこの温泉について、私は「仙台一高山の会(山岳部OB会)」の会報『高嶺第35号』(2019年1月刊)に掲載された志鎌良一「幻の新関温泉を追い求めて-新関善八家11代当主のインタビュー」という文章で初めて知った。素朴な疑問を元に過去について調べ発見をするという、歴史研究のわくわく感が強く漂ってくるいい文章である。ちなみに、志鎌さんは日本を代表する大手電機メーカーの営業部長(だったかな?)をしておられた方で、歴史研究者ではない。
 賽の河原から「ひよどり越え」と呼ばれる急坂を下り、濁川を渡った所の尾根上に、明治末から大正にかけて、わずか10年ほどだけ存在した温泉宿らしい。濁川の手前、別館跡に残る石碑に「子孫者必七月十五日祭礼行べし 発見者山形市肴町 八代目新関善八 幼名善次郎」(表記ママ)と書かれている。それに従い、今も新関家の方々が祭礼を続けているが、諸般の事情で、今年は7月14日だ、という情報が志鎌さんから届いた。志鎌さんの文章によって、新関温泉に関心を持つようになっていた私は、即座に参加を願い出た。
 さて、祭礼の様子や感想は後回しにして、新関温泉とは何かを知ってもらうために、とても長いのだが、まずは志鎌さんの文章をほぼそのまま紹介することにする(本人了解済み。写真と文章の一部を省略。表現一部改)。それを『高嶺』に発表しておしまい、というのはもったいないからである。『高嶺』の発行部数よりは、私のブログの1日の閲覧者の方がはるかに多い。


「幻の新関温泉を追い求めて」(転載)

① インタビュー実現の経緯

 2017年1月にKさんから、前年の集中豪雨で旧新関温泉の石段が現れたので、その新関温泉のことを調べている、と言われた。いつ誰が何の目的で、半年間雪に埋もれる、しかも雪崩の危険のある山中に温泉宿を作ったのか?私も興味を持ち、もしかしたらカモシカ温泉のことではないかと、パソコンで調べ始めた。しかし、カモシカ温泉ではなく、濁川に実際に新関温泉という温泉があったようだと分かってきた。しかし、情報は少なく、まさに幻の新関温泉であった。
 東北大学山岳部OBのSさんの現地調査の結果、濁川左岸の跡地に湯殿山神社の石碑が立っていて、その石碑に「7月15日に祭礼行うべし 発見者八代目新関善八」と書かれていることを知った。新関とは発見者の名前と分かり、手掛かりができた。新関は山形に多い名前だ。調べてみるとかなりの資産家一族で、山形市長になった人もいる。
 新関温泉に関する資料として、『新関温泉小誌』という40ページの資料が存在していることは分かっていたが、どこを探しても見当たらない。私は、この小冊子の発見と、あの呪いのような言葉を石碑に書き込んだ8代目善八の子孫である新関本家の当主に話を聞く以外、もう新たな発見はできないというところまで追い詰められた。(勿論、本家にその小冊子があるに違いないという期待もあった。)
 新関温泉の追跡もこれまでかと諦めかけていた頃、山形市出身の父に新関温泉の話をしたところ、実家のお寺が若木にある広福寺で、その住職の名前は新関姓であること、若木という部落には新関姓が非常に多いことなどが分かり、2018年8月のお盆を利用して父と広福寺に行ってみることにした。
 私にとっては数十年ぶりの訪問である。田舎にしては立派なお寺だという印象は子どもの時にあったが、現在見てもお寺の作りは実に大きく、由緒あるお寺であることが想像できた。しかし、若い住職から、期待したほどの情報は得られなかった。
 ところが、お寺参り後に親戚一同が志鎌家の本家に集まって、話題が広福寺から新関家、そして新関温泉となった時、山形にいる叔母が、新関善八さんの家が自分の実家の近くで、小さい頃に遊びに行ったこともあるという話をし出した。叔母の話によると、三の丸御殿(ちょうど山形城の三の丸にあった)と言われるほど大きな屋敷だったとのこと。
 私は、新関温泉の謎を解く鍵は八代目新関善八のパーソナリティーであると確信し、また、こんな経済合理性のないことは金持ちの道楽に相違ないという仮説も立てた。たまたま9月18~20日に山形に行く用事ができたので、八代目善八氏の存在を少しでも身近に感じてみたいと思い、電話で叔母に「見るだけでいいので、一度新関本家まで連れて行ってもらいたい」と頼んだ。
 すると叔母が、「実は今日、新関本家まで行ってきた」と言うではないか。叔母によると、昔と比べると家は切り取られて小さくなっているが、確かに憶えている新関家だった。叔母がインターホンを押すと、非常に品の良いおばあさんが戸を開けてくれた。叔母が、新関温泉のことを調べている甥っ子がいて、自分の実家からも近いので来てみた、という話をしたところ、なんでそんなことを調べるのか?とかなり怪しまれた。しかし、人懐っこい叔母がいろいろ話しているうちに、そんなに知りたいのであれば、息子の方がよく知っているので適任、というような話をされたらしい。また、叔母から、今でも7月15日に現地に行ってお参りをしているらしいという話を聞き、本当に心臓が止まりそうな興奮を覚えた。
 自分が9月18日から山形に行くことを伝え、ぜひ叔母から、新関温泉について調べている甥っ子がどうしても当主に会って話を聞きたいと言っていることを、その品の良いおばあさんにお願いして欲しいとお願いした。叔母も新関温泉に興味を持ったらしく、快く引き受けてくれた。
 現在の当主・善彦氏は60歳くらいの風貌で、名家出身らしい落ち着きのある方だった。最初は何を聞きたくて来たの?という感じで会話がスタートしたが、2016年に集中豪雨で旧新関温泉の石垣が出てきた話から、私を含めた3人のメンバーで、いつ誰が何の目的で、このような冬に閉鎖せざるを得ないような場所に温泉を開いたのか、という謎を追いかけてきた経緯を説明すると、善彦氏も安心したのか、結局2時間強のインタビューとなった。(続く)