幻の新関温泉(3)

④ 石碑の「毎年7月15日の祭礼」とは?

湯殿山神社の石碑の写真を見せて)この「子孫者必7月15日祭礼行うべし」という文言を、発見者新関家8代目善八が残していますが、今でも毎年新関温泉跡に行かれていると伺ったのですが、本当なんでしょうか?

「本当ですよ。昔は一族や町内会から30名くらい参加したのですが、昨年は私と新潟にいる弟と2人になってしまいました。仙台にもいる親戚も時々参加してくれています。途切れさせるのは、やはり先祖に悪いような気がして続けています。実際は平日は難しいので、7月15日の前の土曜日か日曜日に行っています。15日の後はだめだけど、前なら問題ないと思っています。」

具体的に何をやっているのですか?

「米と塩と水を持って行きます。15年くらい昔は、営林局に年3000円払って賽の河原からの草刈りをお願いしていましたが、1回のために払うのも無駄だということ止めました。神社のあるところの草刈りをしています。昔は人も多かったのでみんなでやり、必ずカモシカ温泉に浸かってから戻りました。カモシカ温泉に行く途中に新関温泉の建屋があったんですね。そのことは私は知りませんでした。20年くらい前に、賽の河原と降り口と現場に新関温泉跡の看板を置いたことがありましたが、いつしか朽ち果ててしまいました。また昔は、賽の河原の売店が車止めの鍵を持っていて、私達が祭礼の時には鍵を特別に貸してくれたので、降り口まで車で入りましたよ。」

いつ廃湯したかご存知ですか?

「よく分かっていないのですよ、私は。」

あと何か聞いたことはありますか?

「新関温泉の建屋は、カモシカ温泉のストーブの薪に使われたので、早く壊れてしまったと聞いています。また、当時新関家の小作たちが温泉場で働いていたんですが、その1人が温泉場で出産しました。生まれた子どもの名前は新虎でした。彼女は自分が生まれた場所だということで、毎年の祭礼には必ず来ていました。」

突然お伺いしたにもかかわらず、長い時間お話しいただき、ありがとうございました。

「私の方も、建物の位置とか新関牧場がそこになかったらしいとか知らないこともありましたので、参考になりました。」

⑤ 後書き

 今回の「幻の新関温泉」を追いかけていく過程で浮かび上がってきたことは二つ。一つは、当時の東北の田舎でさえも、明治維新からの熱気あふれる文明開化の波に乗って、想像以上に躍動していたこと。毛沢東の言葉ではないが、日本も農村が都市を囲んでいて、農村の豪農・豪商たちが自らの資本を提供して、文明開化の波に乗ろうとしていたのだ。
 鉄道省の路線がいよいよ仙台や山形まで開通し、そこから民間の支線ができていった。大河原から遠刈田温泉までの仙南温泉軌道(1917~1937)、槻木から角田までの角田軌道(1899~1929)、増田から閖上の増東軌道(1926~1939)、仙台から蒲生までの宮城木道(1882~1888。平居注:「木道」は誤字ではない)、長町から秋保温泉までの秋保電鉄(1914~1961)などである。(廃線マニアがいるようで、You Tubeで見られる。)
 青根で採れる鉄鉱石を利用して遠刈田で製鉄をしようということで、日本製鉄という会社ができ(現新日鉄住金とは関係なし)、遠刈田製鉄所が1908年に完成した。鉄鉱石の質が悪すぎて採算がとれないため、遠刈田製鉄所は一度も稼働することなく廃止されてしまったが、そこでできた鉄鋼を運搬するのと遠刈田温泉に人を運ぶ目的で建設が始まった鉄道は、1917年、永野(蔵王町役場)-遠刈田温泉間で仙南軌道として開業した。そこからは白石に向かうのが自然だが、大河原・村田の資産家たちが強引に許可を取り、城南軌道として永野-大河原を開業した結果、1922年に遠刈田-大河原が結ばれることになる。
 仙南温泉軌道は温泉客中心の経営を続けたが、バス路線の急拡大に競争力を失い、1933年、遠刈田-永野の開通から考えても15年、全線開通からはわずか11年で廃止となってバス会社に移行され、宮城交通に引き継がれる。今から見ると幼稚で杜撰な計画であるが、当時に身を置いて考えてみると、地方の資産家たちが明治政府の富国強兵の流れに遅れまいと、必死にうごめいて様々な事業展開を図った熱気を感じる。そのほとんどは一時の光は放つものの、線香花火のように消えていったのだろうが・・・。
(平居注:以上の2段落には、間違いと思われる記述が多く含まれたため、Wikipedia仙南温泉軌道」を参考に、かなり手を加えた。)
 8代目新関善八もその1人なのだろう。ただ先祖から引き継いだ莫大な財産を道楽で使ったと済ませてしまうのでは、時代を見失う。山形や蔵王の開拓に夢を持ち、牧場と温泉とを拓くその事業欲と名誉欲は、当時の雰囲気を抜きには考えられない。経済合理性もなく、8代目善八によって強引に進められたであろう新関温泉も、大正の末期までに閉鎖となる。齢十余年である。このように冬には閉ざされ、雪崩のリスクもあり、徒歩で何時間も歩かねば届かぬ温泉など、8代目善八以外誰も長続きするとは思わなかっただろう。そしてそのことは当人が一番感じていたと思われる。しかし、名誉にかけても自分の名前を冠した新関温泉は、代々続けて自分の実績にし、後世に名をも残したい。7代目善八を抜くことは叶わないまでも、8代目善八は立派に温泉を作り上げたと後代に思って欲しい。そういう名誉欲と焦りの気持ちが、あの「子孫者必7月15日に祭礼行べし」という石碑に刻まれた呪文のような言葉に表れているのではないか、と思う。
 もう一つは、当時の山形文化圏の範囲についてである。なぜ新関温泉が宮城側にあるのかというのは意外に重要で、ただ単にたまたま宮城側で温泉が出たというだけではなく、当時の山形文化圏と併せて考える必要がありそうだ。
 蔵王を中心に見ていくと、地理的には山形市上山市が圧倒的に仙台より近い。山形から見る蔵王(龍山)はすぐ間近だ。人口密度を見ても、山形側の方が蔵王町や川崎町と比較して圧倒的だ。昔、定義にお参りに行って、野天で野菜や果物を売っている人たちにどこから来たのか尋ねたら、山形から来ていると言われて驚いたことがある。記録を見ても、新関温泉だけでなく、峨々温泉も宿泊客の半分以上が山形方面からである。当時は我々が想像するよりもずっと蔵王は山形人にとって身近であり、峨々青根まで徒歩圏内だったと理解する方が自然な気がする。私も山形の父の実家に預けられ、毎年夏を山形で過ごしたのでよく分かるが、夏の山形はじりじりと暑い。夏は涼しい高湯(蔵王温泉)に交代で湯治に行く。1度行くと最低1週間は滞在する。2週間、3週間の人もいる。もっと涼しくて効能もある新関温泉に今度は行ってみよう、峨々温泉に足を延ばしてみようと自然になったのではないだろうか? 
 新関温泉には2万人/年の宿泊客があったという記録がある。延べだとして200日営業で100人/日の計算になる。これは新関一族の大キャンペーンがあったとしても、大変な利用者数である。建物3棟も維持は大変だっただろう。開業して8年目には湯量が3分の1に下がり、湯温も下がり始める。大正末期には、さしもの8代目善八も存続をあきらめる時が来たようだ。新関温泉はとうに朽ち果てて知る人もほとんどいなくなったが、正に8代目善八の夢とロマンの場所であった。あの石碑の文言はいまだに私の心を揺さぶる。
(転載ここまで)