幻の新関温泉(4)

 7月14日に、今年の祭礼に参加させていただいた話を書く。
 あいにく強い霧雨が降る中、指定された時刻の30分前、一高山の会のSさん、TさんとともにSさんの車で9時半に賽の河原に着いた時には、志鎌さんは既に来ており、新関家の方も間もなくお見えになった。現在の当主、新関善彦氏と久之氏の2人である。それから数分して、一高山の会のKさん、東北大学(山岳部OB?)のMさん、Hさんも相次いでやって来た。近年は2人だけで祭礼を行うことも多かったらしいので、9人というのは大盛況だ。恐るべし、志鎌効果。
 雨の中、昔カモシカ温泉に荷物を運んでいたワイヤーケーブルの残骸脇を通り、ひよどり越えの急坂を下りる。実は、私にとって初めての道である。坂を下りきり、左に曲がると間もなく濁川の徒渉点だというところで、右に曲がる。10mほど行くと、湯殿山神社の石碑が立つ小さな広場に出た。この広場は、新関温泉の分館が建っていた場所らしい。

 ぽつんと石碑が立っているが、あくまでもありふれた「湯殿山神社」というものだ。言われて見ると確かに側面に文字が刻まれていて、かろうじて読み取ることができる。例の呪文のような言葉「子孫者必七月十五日祭礼行べし」というやつだ。登山道からわずかに離れたこの小さな広場にしても、石碑脇の文言にしても、あらかじめ知っていなければ絶対に気がつかない。
 石碑の前に餅、米、塩、酒を供え、御神酒を酌み交わし、周囲の草刈りをした。大福をご馳走になる。山形市内の星野屋という店のもので、上下を貼り合わせたUFOのような珍しい形をしたものだが、餅といい、甘みと塩加減が絶妙な餡子といい、実に美味い。Mさんが入れて下さったコーヒーも飲んで一息つくと、いよいよ濁川を渡って本館跡を探しに行く。
 幸い、濁川はさほど水量が増えておらず、簡単に渡ることができた。徒渉点のところ、川の中のような場所にわずかばかりの石組みがある。新関温泉の浴室の跡ではないか?ということだ。志鎌さんが東北芸工大図書館で見つけた絵はがきでは、川沿いではあるが、一段上がったところに浴室の建物は建っていたようなので、もしも、現在川の中のようなところに残っている石組みが新関温泉の浴室だとすれば、地形そのものが当時とは大きく変わってしまっていることになる。このような場所で、沢は通常えぐれて深くなっていくものなので、川より一段高かった浴室が、川底の上昇によって川の中になるというのは考えにくい。石組みを浴室跡とすることに私は懐疑的だ。
 川を渡ったところの左側にお地蔵さんがある。前を通過して、登りにかかる。時々、美しく組まれた石垣を目にする。つづら折りの登山道を登っていくと、尾根の頂上に近づいたところで石段が現れる。わずかに十数段なのだが、とても整然とした美しいものだ。この石段が、志鎌さんの記事の冒頭に出てくる、今回の新関温泉調査のきっかけになった石段なのだろう。地形的にも、石段の美しさからしても、これが長く埋もれたままになっていて、集中豪雨で現れたというのは信じがたい。だが、これら明らかな人工物の存在によって、ここに温泉宿があったということが、確かなこととして実感できる。
 尾根に上がったところで登山道を右手にそれ、微かな踏み跡のようなものをたどる。Mさんによれば、この辺りに新関温泉の本館があったはずだという。20mほど行ったところに大きなダケカンバの木が生えていて、おそらくそこの手前が建物の南端だっただろう、という。皆で建物の名残を探す。おそらくこれは礎石だろうとか、この木は残骸だろうとか言いながら物色するが、なるほど確かに、と言うほど確信の持てるものではない。踏み跡を一歩離れると藪が濃くて、遺構探しも容易でない。
 唯一遺構としてはっきりしていたのは、登山道脇の藪の中にあったコンクリート製の枠である。その形状から、排水処理のための施設だったのではないか?ということで参加者の意見は一致した。
 絵はがきを見ると、本館も分館も浴室も、ほとんど裸地と言ってよいようなところに建てられている。しかもそれが、建物の建っている場所だけではなく、周囲も含めてだというのは不思議だ。温泉宿を建てるために、それほど広範囲に樹木の伐採をしたのだろうか?現在の藪の濃さからは想像もできない。
 毎年の祭礼は、湯殿山神社の石碑のところを訪ねるだけだそうである。新関さんも、本館の跡地まで行ったのは初めてだそうだ。あいにく天気が悪く、「徹底的に調査する」とはならなかったが、新関温泉が確かにそこに存在したことの確証は得られたわけだし、妙にワクワクする時間(3時間弱)を過ごすことができた。
 志鎌さんは、『高嶺』に一文を発表した後も、執拗に資料の収集を続けておられる。明日以降(少し間が空くかも)、その紹介もさせてもらおう。(続く)