「我が祖国」=熱演<共感

 昨日は、仙台フィルの第329回定期演奏会に行っていた。下野竜也の指揮によるスメタナ「我が祖国」全曲である。
 指揮者によるプレ・トークの中で、下野氏は仙台フィルにおける「我が祖国」演奏史をたどった。それによれば、仙台フィルがこの曲(全曲)を演奏するのは6回目らしい。記念すべき第1回は、1986年9月1日の「宮城フィル」第45回定期演奏会で、指揮は当時の常任指揮者・籾山和明。ここで下野氏は、「その時の演奏をお聴きになった方はいますか?」と客席に問うた。私を含めて3人が手を上げた(と思う。一瞬のことだったので、この人数が正確かどうかは?)。私以外は70代と思われる方々である。下野氏は、昨日の演奏会でも同様の質問をしたところ、3~4人が手を上げた、と言っていた。私の音楽体験も、その程度の希少性を持つようになったということに、若干の感慨を抱いた(聴いたが手を上げなかった、という人もいるだろうけど・・・)。当時、首席客演指揮者だった小林研一郎氏の演奏会を別にすると、「宮城フィル」の演奏会にさほど熱心に足を運んでいたわけではないから、第45回になぜ行く気になったのか、その時の演奏がどのようなものだったかはまったく思い出せない。(行ったことだけは憶えている。帰宅後、プログラムを確認した。)
 下野氏はチェコの音楽を得意とするらしい。私もかつて、下野氏のオール・チェコ・プログラム(仙台フィル第229回定期)や、ドヴォルザーク交響曲第8番(都響)を聴きに行って、さもありなんと納得したことがあった。履歴を見るに、チェコへの留学など、それらしき経歴があるわけではない。だから、下野氏がチェコ音楽を得意としているというのは、純粋な音楽的相性なのだろう。少し不思議な感じがする。
 大変な熱演だった。途中、休憩を取ることなく、一気に全曲を演奏したことも含めてよかったと思う。ハープをステージの左右に配したことも新鮮!だが、その割には音楽が長く感じられた。後へ行くほどその傾向が強まった。これは感動していない証拠である。大変立派な演奏であることは、頭で分かっているに過ぎない。
 終演後の拍手では珍しいほどの盛り上がりが感じられたから、もしかすると、それは私自身の体調の問題か何かであるかもしれない。何しろ、仙台駅から、あちらこちら寄り道しながら1時間半もかけて会場まで歩き、けっこうくたびれていたから・・・。
 今日は朝から、亡命したクーベリックが44年ぶりで祖国に戻り、かつて首席指揮者を務めていたチェコ・フィルを振った歴史的演奏の録音を聴いた(1990年5月12日「プラハの春・音楽祭」ライブ)。多少「ながら」聴きをしていたこともあるが、さほど長い曲には感じなかった。素晴らしい、もしくは味わい深い演奏だと思った。
 私が思ったのは、昨日の仙台フィルの演奏が、これでもかこれでもかというくらいひたすら一生懸命な演奏だったのに対して、クーベリックチェコ・フィルは、非常に自然な共感が感じられるということである。何も特別なことはしない。だが、彼らがともに演奏していること、それ自体が特別と言えば特別であって、それ以上のことは何も必要がないのだ、と語っているように感じられた。
 クーベリックはおそらく、20世紀に活躍した指揮者の中で、バーンスタインの次に、もしくは同レベルで私の好きな指揮者である。奇をてらったところのない、非常に自然な音楽を紡ぎ出す。しかも、そのクーベリックにとっても東欧革命を経た特別な演奏会だったとすれば、いくら俊英と言えども、下野氏に同じだけのものを求めるのは酷というものかもしれない。体育会的な快感を求めるのであれば、下野氏が「勝ち」ということになるのだけれど・・・。