ついに発刊!・・・『冼星海とその時代』

 読者への報告が遅れてしまったが、先週、ようやく私の著書『中国で最初の交響曲作曲家 冼星海とその時代』(アルファベータブックス刊、356ページ、3780円=税込み)が、本の形になった。私の所には11日に届き、出版社からは、19日くらいから書店の店頭に出るだろうと予告されていたので、先週の土曜日、演奏会に行く途中で仙台の紀伊國屋書店に立ち寄ってみたところ、音楽関係書物のコーナーに、既に拙著が並んでいた。書店に並んでいるというのは、本=自分の得た知識が、いわば「公共の財産」になったということである。3度目とは言え、やはり嬉しい。本当は「音楽」ではなく、「世界史」または「中国史」のコーナーの方が、内容的には似合っているのだが仕方ない。奥書では、刊行日が7月22日となっている。
 何しろ、出版社に「最終原稿」という形でデータを送ったのが、昨年の11月19日。初校が1月12日に出たにもかかわらず、それから校正を5回重ね、さらに半年を要した。おそらく出版社としても、難産だった本の代表格として記憶に残るのではあるまいか?
 アルファベータブックスからの出版が決まった時には、11月に原稿を入れれば2月にも出せる、という話だった。初校が出た時には、3月刊行にしたいが、会社の出版スケジュールの関係で4月に出す、と言っていた。それが5月になり、6月になり、とうとう7月になってしまったのは、私の原稿にエラーがたくさんあって、それに大幅な手を加えるものだから、直した後の確認にも慎重を期することになり、校正の回数を増やすことになってしまったというのが主な理由である。しかし、決してそれだけではない。
 新しい校正が届くたびに、そこには編集者Yさんによる書き込みが「びっしり」と言ってよいほど為されていた。それは、表現についての提案であったり、内容についての疑問であったり、補筆の要望であったりである。単純な表現の問題であればかまわないのだが、調べ直しが必要になることも少なくなかった。そして、調べ直しをしているうちに、Yさんによる指摘のなかったところにも、手直しの必要を感じる所を発見するということが相次いだ。
 博士論文提出の直後から、大学の先生からも活字化は勧められたし、某出版社に紹介さえしていただいたのであるが、私自身は、できるだけ平易な一般書にしたいという気持ちがあった。専門書として出せば、本は狭い世界の中に封殺される。真面目な読者はせいぜい50人くらいだろう。それは、学術の成果は社会全体に還元されるべきだ、という私自身の思想に反した。
 しかし、原稿用紙1100枚の学術論文を一般向けにする作業は難しかった。一般の方に何を伝えるために書くのかという根っこの所で、自分の考えを明瞭にできない。何をどうすれば一般の方が手に取る気になる本になるのかもよく分からない。一昨年の夏から昨年の初夏まで私は呻吟し、書きかけては捨てるという作業を繰り返した。
 自分なりに方向性が見えてきて、それなりに手応えを感じながら書き直しを進めることができたのは、昨年の夏休みである。私は、なぜ私が中国近代史研究を始めたのか、その説明に膨大な字数を費やしてプロローグ(本で序章になった部分)とし、補足的な説明の注についてはできるだけ本文に取り込んで注をなくし、本文のあちらこちらをカットするとともに、学問的厳密さを求めた結果として多論並記で長い説明が必要になっていた部分を、推論と独断で補ってすっきりさせた。分厚い本は出してくれる会社がないと思ったので、なんとか標準的な体裁で250ページに収まるようにと考え、ほぼその通りの形で仕上げたのは、9月に入ってからだった。
 途中は省略するが、その後の営業努力の結果として、私にとって第一希望の会社のひとつであったアルファベータブックス(旧アルファベータ。「20世紀の芸術と文学」という充実した叢書が出ていて、このブログにも、マテオプーロスの『ブラヴォー、ディーヴァ』やファーイの『ショスタコーヴィチ』からの引用を相当数探すことができる)が出版を引き受けると言ってくれたのが、昨年10月26日のことであった。これほど簡単に第一希望の会社の中から出版を引き受けてくれる会社が現れたことは、私にとって正に僥倖であり、私という人間の運の強さを思わせる。
 しかも、その際、せっかくだから注はしっかり付けた方がいい、ページ数は気にする必要がない、という驚くべき提案があった。私は、注の復元に取りかかった。ところが、学問的厳密さを犠牲にして、推論と独断ですっきりとさせた文章が、注を復元して典拠も明示するとなると、「推論と独断」であることがばれてしまうため、再び本文も書き直しが必要になった。手を加えれば加えるほど、どんどん元の論文に戻っていく。これは実に奇妙な感覚だった。
 その後、利用する人もいるかもしれないから楽曲一覧も参考文献一覧も入れよう、年表も作って欲しい、という提案や依頼があり、その作業を進めていくと、今度は、出版社で作業をするから索引も付けよう、私が持っているCDの紹介ページも作った方がいい、と提案が相次いだ。歴史背景についての記述も大幅に増やすことが求められたし、情勢の変化が分かるように、5年刻みくらいで何種類かの地図を載せるという話もあった(最終的には1枚になった)。もちろん、それらは私にとって歓迎すべきことだったため、私は最大限の努力をしてその提案に応えた。その過程で、なんとなく分かった気になっていたことが実際には分かっていないことに気付くなど、私自身にとって勉強になることは多かった。
 出版が決まった時期、私が会社に嫌がられないように遠慮しながら、写真を10枚くらい入れさせて欲しい、と言ったのに対して、写真はあった方が読みやすいので、枚数を気にせずに入れようという返事もあった。写真は、最終的に71枚まで増えた。
 とにかく編集者Yさんの、これをいい本にしたいという情熱と、そのために費やした労力とは、過去に本を2冊出した経験のある私にとっても驚嘆に値した。本は文化そのものである。たとえもうけにはならなくても、いい本を世に出すことで、日本の文化水準の向上に貢献する、出版社にはそんなプライドが確かに必要なのだ、と感じさせられた。拙著を優れた本であると誇る自信はないが、それでも、アルファベータブックスとYさん以外によっては、これだけのレベルの本にすらならなかったことは間違いがない。構造的な出版不況と言われる昨今、商業出版書籍として本を出してもらえることだけでも十分にありがたいことなのに、それを少しでもよい本にしようと、これだけの手間をかけてもらえた自分の運の強さを、今しみじみと噛みしめている。金になるかどうかが価値判断の唯一の基準という、幻想社(厳冬社だったかな=笑)は、Yさんの爪の垢でも煎じて飲んだ方がいい。
 とは言え、これが売れない本であることは、当初から私には分かっていたし、作業の過程で出版社にも十二分に分かってきたのだろう。本作りをしていた半年あまりの間に、ページ数が約100ページ増え、制作期間が3ヶ月あまり延びたこともあって、価格が約1000円上がり、出版(印刷)部数が500近く減った。私には、この本によってより多くの方に中国近現代史の面白さを感じていただきたいという気持ちはもちろんあるが、出版社の費やした労力に少しでも応えたいので、多少高価ではあるが、多くの方に買っていただけるようお願いしたい。
 ともかく、以上のような顛末の末、拙著は世に流通を始めたのである。

(私から直接買っていただく場合は、多少の割引ができます。直接手渡しできない方は、送料やお金の受け渡しの面倒を考えると、私から買うメリットはありません。出版社から送ってもらうと、私の紹介があっても、書籍代は定価、送料と振込手数料無料なので、書店で購入するのと同じことになります。7月25日に河北新報第1面、27日朝日新聞読書面、28日毎日新聞1面に広告が出る予定。)