参議院議員選挙雑感

 参議院議員選挙が終わった。自民党議席を10減らしたものの、公明党が2議席増やし、与党が改選議席過半数を維持したことなどあって、与党が「負けた」という論調はない。紙面にはひたすら「勝利」の文字が躍る。私は、自民党がもっと議席を得て、維新の会と合わせて改憲勢力が3分の2を超えるだろう、と覚悟していたので、よくぞこれで済んだ、との思いが強い。
 世の中を見ていて、ただひたすら目の前の自分の利益だけを追い求め、哲学的にものの是非を考えるなどという雰囲気は微塵もないので、「民意」によってまともな政治=社会が作られるという期待はまったく抱くことができない。「Tr,平居の学年だより」(→こちら)で、若者の社会参加=政治参加=投票を呼びかけてみたりはしたものの、若者が投票すればするほど自民党が強くなるだけだから、若者は投票に行かないことが彼ら自身にとってもよい、という屈折した気持ちもあった。困ったものである。
 首相の街頭演説時に聴衆がヤジを飛ばしたところ、警官に無理矢理移動させられるという出来事があった。マイクを使ったわけでもない、ただのヤジである。権力に対する忖度と卑屈は、こうしてエスカレートしていく。実に忌まわしい。
 宮城県は、なんとか野党共闘候補が勝つことができた。私が心配し、不快に思っていたのはN国=NHKから国民を守る会である。宮城には、自民党野党共闘とN国という3人が立候補していた。野党がせっかく統一候補を出したのに、その分裂を促すかのような存在がN国であった。N国が当選することはあり得ないにしても、1票を争っている時に、たとえ10票でも20票でも、野党の票が分裂してN国に取られるというのは危険なことである。そのN国は、宮城県で36000票を集めたのだから恐れ入る。世の中の人々が何を考えているのか、私には益々分からない。
 そもそも、N国とはどのような存在なのだろうか?と言うのも、立候補の届け出さえすれば自由に選挙に出られるというならともかく、日本には悪名高き「供託金」というものがあって(たいていの国に供託金制度はあるが、日本が圧倒的に高額で没収ラインも高い)、一定の得票が得られなかったら没収されることになっているのである。参議院議員選挙(選挙区)の供託金は、なんと300万円だ。N国は45ある選挙区のうち32の選挙区に候補者を立て、おそらくその全ての供託金が没収となった。1億円近い。
 NHKという放送局に、いろいろと問題があることは私も承知しているつもりである。しかし、NHKに対する不満を集めて全国組織を作るというのは、非常に難しい作業である。国政選挙を、その争点だけで戦うというのも無理がある。しかも、選挙には金がかかる。勝てる見込みがない存在でありながら、少なくとも1億円の金が集められ、捨てられるというのは、いったいどういう理屈なのだろう?マスコミには、ぜひこの組織の正体を暴き出して欲しいと思う。
 私は、自民党が野党候補の票を割るために、金を出し、裏で糸を引いていたとみている。それ以外に説明のしようがない。幸いにして、N国があったせいで野党共闘候補が敗れたという選挙区はなかったようだが、それは結果論であり、「運」でしかない。N国のせいで野党が敗れるという可能性は、32の選挙区で間違いなく存在していたのである。
 全ての1人区で野党共闘が実現したことはよかった。だが、選挙戦の進め方には感心しなかった。年金の問題など、国民の実利に関わる部分でいくら与党を攻撃したところで、さほど効果があるとは思えない。社会保障に関する与党批判では、財源に責任を持たない勝手な意見だという批判や、野党共闘は野合であって、選挙が終われば意見対立が表面化するという人々の不安を解消させることはできない。
 もしかすると、日本人のレベルがその程度だという現実的判断でそうしていたのかもしれないが、大切なのは、野党各党間にいろいろな意見の違いがあることを認めた上で、守るべきもっともっと大きな価値があるのだ、そのために共闘しないわけにはいかなかったのだ、ということを訴えることであった。「大きな価値」とは、肥大した権力は危険であり、そのような存在を作ってはならない、ということである。
 首相も官房長官財務大臣も変わりそうにない。想像するだけで気が滅入ってくる。自民党は金と権力に対して極めて貪欲な政党である。その意識が揺るぎのない求心力を生む。ある意味でそれが日本人の姿そのもの、だからこれだけの支持を受ける。いくら投票率が低くて、本当に信任されたわけではないとか言ったってダメである。選挙に行かないことも含めて、それが今の日本の現実だ。
 悲しいことだが、選挙の後にはいつも思う。選挙は最善を選ぶための仕組みではなく、みんなで選んだのだから仕方がない、とあきらめるための装置である。