中村稔『高村光太郎の戦後』をめぐって(続)

 中村稔氏の研究は、「王道を行く」というような風格がある。それはどういうことかというと、先行研究を一切気にすることなく、光太郎と茂吉を比較するなら、ひたすら彼ら自身の、もしくは周辺に生きて関係した人々の文章だけを読み込み、それによって論を為していく、ということである。先行研究なんて意識しなくても、本当に自分自身の読みができていれば、それは自ずからオリジナルなものになるのだ、と信じているかのようだ。
 茂吉と光太郎を比較検討した論というのが、中村氏以前にどれほどあったのか私は知らない。ただ、例えば私の書架を見れば、大島徳丸『茂吉・光太郎の戦後』(清水弘文堂、1979年)という書物を見つけることができ、そこには巻頭の「緒言」において、市村宏氏が「『茂吉・光太郎』に就いて書かれたものは必ずしも乏しとはしない」と書いている。そんな中で、市村氏が大島氏の本に価値を認めるのは、「明治人と天皇と国家」というテーマがユニークだから、と言う。
 確かに、大島氏の本の中で、「明治人」「天皇」というのは、極めて重要な位置を占めている。彼らの行動原理が、「明治人」であることに由来するというのは、大島氏自身も高見順に出ていることを述べているし、私自身も『「高村光太郎」という生き方』の中で指摘している。だとすれば、大島氏の独自性というのは、彼らの天皇に対する意識を深く追求した点にあると言えるだろう。大島氏は次のように言う。

「茂吉も光太郎も、そして日本人全体があまりにも人が好すぎた。信じたものがあまりにも悪すぎたとも言えよう。しかしこのことをつきつめてゆくと、どうしても天皇という問題に突き当たる。あの戦争を考える場合、いよいよとなると、天皇に触れざるを得なくなるのである。」(114頁)

そしてこの天皇という存在について、氏は竹内好の次のような言葉を引く。

天皇制の把握の困難さは権力が権力として現象しないことにかかっている。権力がむき出しの形であれば、それに立ち向かうことはできるが、やんわり空気のように充満しているものに抵抗はできない。権力として意識されぬことが天皇制権力の特色である。芸術家の意識における国家は、ほとんどの場合共同体的なものに表象されていて、一個の支配体系とは考えられていない。相対するものではなくて包まれるものである。」(96頁)

 私には正しい認識と思われる。が、だから天皇に抗しきれなかったと言うのは、やはり言い訳に過ぎない。特に、茂吉のような権威主義的な傾向を持つ人ならともかく、光太郎のように強烈な自我を持ち、自らもその自我の運用に人生を賭けたと言っても過言ではないような人物の場合、天皇という存在の性質に責を帰することは、本人も歓迎しないことであるに違いない。
 中村氏は天皇をめぐる2人の意識には触れない。「明治人」というような観念に何かの原因を求めたりもしない。夥しい書簡や日記の引用によって、茂吉、光太郎双方の疎開先での生活を描き、作品を評していく。いわば「具体的な生身の人間」を実感的に探ろうというわけだ。そしてそこに、2人の生き方の違いが鮮やかに浮かび上がる。大島氏の視点とのずれが、果たして偶然であるのか、それとも、中村氏が触れていないだけで、その意識の中にはあったのか、それは判然としない。
 また、私は、光太郎の戦争協力を、時代や幼少時の家庭教育の責任とするよりは、自我に徹底的にこだわって生きることを宣言していた光太郎の、ある種の挫折であったと理解している。これは『「高村光太郎」という生き方』を書いていた時も今も変わらない。そして、戦後の日々に反省というものがあったとすれば、戦争に協力したことではなく、戦時中に自我を貫けなかったことについてであると考える。中村氏が仮に拙著を読んだとすれば、この点をどのように考えただろうか?
 先行研究に一切触れず、それでいてしっかり読ませるだけの論を為す中村氏に私は感嘆しつつ、それをしていれば、やはり論点がよりいっそうくっきりし、内容も豊かになったのではないか、との恨みが残る。そのような研究の基本的方法論というのは、やはりそれなりに大切なのだな、ということを思わされる。

参考:本ブログにおける高村光太郎関係記事一覧→こちら