「全車指定席」考(補)

 昨日の「全車指定席」問題について補足しておく。
 7月28日、石巻地方では、夜中に大雨が降った。「大雨」と言うよりは「強雨」と言った方が正しいかも知れない。強くはあったが短時間だったので、それが私の出発に影響するとは考えもしなかった。
 私が駅に行った6時15分頃には、雨は既に上がっていた。見れば、いつものホームに仙石東北ラインの列車が止まっていた。これは変である。なぜなら、6:35発の列車は女川が始発なので、通常は6:26にならないとホームに入ってこないからである。構内放送で、大雨のため女川~石巻が運休になったこと、6:35の列車は石巻始発で定刻に発車することがアナウンスされていた。私は胸をなで下ろした。
 ところが、大雨の影響で危険なため、野蒜(のびる)まで徐行運転を行うという。通常は時速80㎞くらいの速さで走る列車が、その半分、40㎞くらいでのたのた走る。雨が上がった外の様子を見ていても、何が危険なのか皆目見当が付かない。どこかが冠水しているということもなく、川さえも増水しているようには見えない。車も自転車もいつもどおりに走り、人もいつもどおりに歩いている。列車だけがいつもどおりでない。まるでバカみたいだ。
 仙台では30分の乗り換え時間があった。ところが、列車が35分余りも遅れた都合で、その新幹線「やまびこ」に乗ることができなかった。新幹線ホームに駆け上がった時、そこには「はやぶさ」が停まっていて、発車ベルが鳴っていた。私は飛び乗った。「はやぶさ」なら、乗る予定だった「やまびこ」に追いつけて、その後の予定を変更せずに済む。とっさにそう判断したのである。
 「やまびこ」には自由席車両が連結されているが、「はやぶさ」は全車指定席である。しかも、「はやぶさ」は特急料金そのものが、仙台~大宮で「やまびこ」より310円高い。もちろん、私が持っていたのは「やまびこ」の自由席特急券だ。車内はガラガラ、乗車率3割といったところである。
 車掌が回ってきた。車掌は、全車指定席の「はやぶさ」なので、追加料金830円を払うよう私に求めた。私は拒否した。

「いくら気象によるものであって、JRの不手際とは言えないとしても、在来線が遅れたから本来乗る予定だった《やまびこ》に乗れなかったんですよ。私は座席の指定もしていないし、この列車に乗りたくて乗っているわけでもありません。仕方なく乗っているんです。どうしてそんなお金を払わなくちゃダメなんですか?
 私は大宮で下りて新宿に行き、そこから中央本線の各駅停車で甲府に行くんです。予定の各駅停車に乗れなければ、特急《あずさ》に乗らなくちゃダメになります。そうしないと、甲府から私の目的地へ行く最終バスに間に合わないんです。
 だから、私が次の《やまびこ》に乗れば、《あずさ》の特急料金が必要になります。東北新幹線なら、仙石東北ラインの遅延についても理解してもらいやすいかも知れませんが、中央本線ではそんなこと理解してくれないでしょうから、当然それを払えと言われるでしょう。それが嫌で、次の各駅停車に乗ったら、今度はバスに乗れないから甲府で宿泊が必要になります。しかも、明日以降の予定を1日ずつずらさなくちゃダメになります。社会人が、予定を1日ずらすというのがどれほど大変か、車掌さんだって分かるでしょう?
 何か事故が起きればJRが厳しく非難されるという風潮には、私も同情してますよ。だけど、今日の徐行運転はひどすぎるんじゃないですか?安全優先にもほどがあると思いますよ。その結果として、私が指定席料金や特急料金を自己負担するというのは不合理でしょ。列車を遅らせればJRにとって利益になる、ということになっちゃうじゃないですか。私は絶対に払いませんよ。」

 それでも、車掌氏は、JRの規則を盾に指定席料金の支払いを強く求めてきた。次の停車駅が私の下りる大宮なので、「だったら下りる」とは言えない。この後も、「払わないvs払え」の押し問答が続いたのだが、それが今日の主題ではないので、最終的に私が払ったかどうかは書かない(笑)。
 大切なのは、ここに現在の「指定席」の本質が露骨に表れている、ということである。つまりそれは、座席指定料金が、事前に座席を確保するというサービスの対価ではなく、「はやぶさ」という列車そのものの価値として設定されているということだ。使用している車体の構造(シート幅や間隔)はおそらく同じなので、「はやぶさ」という列車そのものの価値とは、言うまでもなく到達時間の短さである。指定席を利用する人にとっては310円が、自由席を利用する人にとっては310円+520円=830円が「特別特急券」として機能する。指定席券は「座席指定席券」ではなく、「特別特急券」の一部なのである。本来の目的とは違う形で指定席券の購入を強いることを、私は「ずる」だと思う。そして、売れた席だけが指定席で、売れていない席は自由席というヨーロッパ流は合理的だな、との思いを強くしたのであった。