戦争の教訓(教訓は普遍化されなければならない)

 戦争の反省は戦争にだけ生かされるべきものでもない。なぜなら、全ての行為は、等しく「人間」から生まれるのであり、すると当然、「人間」の性質を反映するからである。
 私は被災地に非常に冷たい被災地の住人である。そんな私が最も冷たい目を向けているのは、「復興」を名目とした土木工事と、教訓を伝える「語り部」活動だ。
 私が語り部活動を批判、もしくは否定するのは、自分の話を聞いてもらおうという意識ばかりが強くて(更に正確に言えば、「聞いてもらおう」ではなく「聞かせてあげよう」)、過去の言葉に謙虚に耳を傾けるという姿勢が微塵もないからである(→参考記事)。改めて確認するが、東日本大震災で考えるべき最も大切なことは、津波の教訓をいかにして伝えるかではなく、なぜ私達は過去の津波の教訓を受け継ぐことができなかったのか、だ。
 「戦争」は人間の行為である。津波よりもはるかに多くの考えるべき要素、教訓を含む。ただし、そこに含まれる教訓は、「津波→逃げろ」という単純極まりないものと違って、複雑・重層的なものである。その面倒さが、人々をして目を背けさせるのだろう。津波の教訓を伝えようという活動が盛んなのは、人が自分の声に耳を傾けてくれる快感によるだけでなく、その単純な図式が人々の頭の程度にぴったりだ、ということにもよっているように思う。
 だがやはり、人間が生き延びるためには、そのレベルに止まってはいけない。面倒なことを避けないだけでなく、戦争を戦争の教訓に止めず、様々な事象に当てはめ、普遍化していくことがどうしても必要だ。
 その戦争に関して、私がひどく深刻な教訓だと感じているのは、国民の多くが、戦争が終わって初めて、戦争の愚かさ、自分たちがしたことの意味に気づいたということである。古来言われるとおり、人間には見たいと思うものしか見えない。他国の資源を奪って豊かさが実現し、戦えば勝利するという景気の良い状況においては、ほとんどの人が戦争のマイナス側面に気を向けず、脳天気に熱狂する。戦況が悪化してからも、本当かどうかも分からないようなプラスの要素に目を向け、また、周囲の人々がすることを見ながら、その中で孤立したくない、後ろ向きな人間だと評価されたくないという心理もあって、事態を過激にする方向にばかり動く。やがては、既に多くの命とお金を費やしてしまったという意識から後ろに引けない、いわゆる「コンコルドの法則」も作用する。
 人は身の回りで起きていることの意味や、その方向性の正しさについて無批判だ。そして、破滅が到来した後で、その間違いに気づくのである。戦争からそんな歴史の教訓を読み取ることができれば、現在の状況について問題点も見えてくるはずであるが、残念ながら、人はそんなことを考えている風ではない。
 現在、私が最も心配している人類にとっての課題は、言うまでもなく「温暖化」である。この問題は、もはや抜き差しならないところまで切羽詰まっている。私が思うに、よほど敏感な人間にしか見えないレベルではなく、普通のアンテナを持っていれば、否応なく目に入ってくるレベルだ。具体例など挙げるまでもない。しかし、この期に及んでも人は消費を真剣に抑制しようとはせず、いまだに「より豊かな生活」「経済成長」という幻を追っている。
 地球は「プラネタリー・バウンダリー」(→こちら)に既に到達したか、到達する直前であり、おそらく、私が生きているうちにも、危機的な環境の悪化と食糧危機が到来する。いくら私でも、人類が絶滅するとは思っていないが、相当数の人間が死ぬような事態には至るだろう、と思っている。もちろん、それは今の熱中症や豪雨による死者数とは、桁が5つも6つも、或いはそれ以上に違う数字になるはずだ。そしてその時、人間は「戦争」と同じように、あの時こうしていれば、と思い、もっともらしい「教訓」を語ろうとするに違いない。いや、戦争と同様にであれば、悲劇となった結末だけを伝えようとするのかも知れないが、残念ながら温暖化は、戦争と違って、ある瞬間に終わらせることができない。
 津波で大きな被害が出たとなれば、「また津波が来たらどうする?」としか考えられず、しかも四六時中地震津波の心配ばかりしているのと同様、「戦争」の反省は「戦争」の反省、それ以外の問題は別の問題、その戦争ついての反省すら「戦争は悲惨だ→二度としてはならない」というレベルに止まる。こうして人類は永久に「新しい」悲劇を生み出していくしかないのだろうか?(完)