読売と朝日・・・愛知の問題をめぐって

 塩釜高校は今日から新学期。お盆前後、宮城県としては珍しいほどの厳しい暑さ(気温よりも湿度!)が続いていたが、幸い、昨日からひどく涼しい。もっとも、空気は相変わらずねっとりとしていて決して快適とは言えないし、夏休みが明けた瞬間に暑さがぶり返すというのは珍しくないので、油断はできないのだけれど。
 夏休み中に起こった出来事で最も印象的だったのは、やはり「愛知トリエンナーレ」における「表現の不自由展・その後」の打ち切りだ。京都アニメーションの放火事件の方が、報道は大きかったようにも思うが、あの事件は特殊な人間(気違い)が個人的に起こした局部的なものに過ぎない。被害者・死者の多さが、事件の社会的意味の大きさを表すわけではないのである。しかし、東日本大震災を見ていると分かる通り、人は往々にしてそれらを混同する。
 「表現の不自由展・その後」については、あまりにも多くの意見が飛び交い、報道されている。憲法第21条との関係、政治家の介入、公金を費やすことが許されるかなどの問題はあるにせよ、はっきりしている問題は、表現の妥当性についての議論を尽くした結果の中止ではなく、暴力的な脅迫に屈する形で中止が余儀なくされたことである。この不当性は議論の余地がない。政治家や公金の問題を絡めると、その点が見えにくくなる。それらをしっかり分けて議論しないと、問題は無駄に紛糾する。
 昨日の朝日新聞に載っていた「あいちトリエンナーレ」芸術監督・津田大介氏のインタビュー記事は、当事者のものだけに面白かった。私は「茶髪」に対する生理的な拒否反応があるので、茶より金に近い髪の津田氏に対しても、はなはだ印象よろしくないのだが、今日の記事などを見ていると、なるほど、単なるチャラ男ではなく、それなりにしっかりした人だなと思う。
 特に印象的だった部分を抜き書きする(Qは記者、Aが津田氏。省略部分があるが、煩瑣なのでその旨注記しない)。

Q:展示を不自由にしているのは権力による検閲ですか?
A:日本で表現の自由を強く脅かすのはむしろ「集団的な自己検閲」ではないかと考えます。現場側が忖度をしたりトラブルを避けたいと考えたりすることで、結果的に特定の政治的な表現が排除されていくような現象です。
Q:今回は企画展自体が中止になりました。表現の自由を後退させたとの批判もあります。
A:本当にトリエンナーレが後退させたのでしょうか?警備などに莫大なコストをかけないと表現ができないというこの現実は、すでに表現の自由が後退していることを示していると言えないでしょうか?

 ところで、このような内容そのものに関わる部分ではなく、新聞に目を通しながら、私にとってひどく印象的だったことがある。それは、安倍政権になってから非常に鮮明になってきた新聞の姿勢の違いについてだ。
 あまりにもことが重要なので、河北と全国三紙については丁寧に報道を確認しておこうと思ったのだが、なんと、読売新聞については、中止の第一報を探すことが難しかった。問題が一斉に報道された8月4日の新聞を、私は2度読み直して、ようやくその小さな記事を見つけたほどである。しかもこの後、読売は8月9日に社説でこの問題を取り上げたのだが、見出しは「主催する側にも甘さがあった」というものである。本文を読めば、「表現活動をテロや脅迫で封じ込めようとする行為は、断じて許されない」ということは確認しているにせよ、昭和天皇をモチーフにした作品に激しい抗議行動があり、公立美術館が管理運営上の理由で非公開とした判断が、裁判で是認されたと紹介した上で、「作品展示が物議を醸すことが予想されたのに、反発を感じる人への配慮や作品の見せ方の工夫について、検討が尽くされたとは言い難い」とし、「主催者側の想定の甘さと不十分な準備が、結果的に、脅迫を受けて展覧会を中止する前例を作ったとも言える。その事実は重く受け止めなければならない」と結ぶ。これは「いじめられる側にも、いじめられるなりの理由がある」という論理である。おそらく、この二つが「表現の不自由展・その後」についての、読売の報道の全てである。たったこれだけ。
 朝日も、8月6日の社説で「表現の不自由展・その後」の中止を問題とし、「予想される抗議活動への備えは十分だったか。中止に至るまでの経緯や関係者への説明に不備はなかったか」と主催者の問題を指摘してはいるが、それはあくまでも、丁寧に検証し、今後への教訓とすることを求めているだけである。しかも、見出しは「中止招いた社会の病理」で、結びは「一連の事態は、社会がまさに『不自由』で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた。病理に向き合い、表現の自由を抑圧するような動きには異を唱え続ける。そうすることで同様の事態を繰り返させない力としたい」である。読売との違いはあまりにも大きい。
 全国首位の発行部数を誇る新聞が、「いじめられる側にも、いじめられるなりの理由があった」という論理を主題として社説を書く現実を、私は憂慮する。社会的な知性の劣化と言えるかも知れない。私などには、その向こうに、安倍政権の軽薄な学術政策が透けて見える。