まごころ・・・日韓関係に寄せて

 先週の金曜日、毎日新聞で、自民党の石場茂氏が日韓問題について、自身のブログに「我が国が敗戦後、戦争責任と正面から向き合ってこなかったことが多くの問題の根底にあり、様々な形で表面化している」と書いたことが話題になっていた。記事を書いた与良正男専門編集委員は、それを「まっとうな意見」「しごく当たり前の意見」と評している。
 最近の日韓関係の悪化には、私も人並みに胸を痛めていた。航空路線が休止になるとか、訪日観光客が激減するとか、そういう問題ではない。他国、もしくは隣国と仲が悪くなるということ自体が、絶対値的に困った問題だと感じられるのである。いい、悪いを、金の問題にしてはいけない。
 この日韓関係の悪化については、その原因を、あまり単純に考えることはできない。そもそも、日本と韓国は地理的に近いにもかかわらず、日本人と韓国人は気質的に大きく違う。徴用工問題は、韓国が条約違反をしているのではないか?と思う。日本が韓国に対して行った措置が、報復的なものでないかどうかは、日本政府が問題とする韓国の事情を事実と認めるだけの情報を持たない私にはよく分からない。報復的にも見える。
 日韓関係の悪化が、戦争責任に対する日本の戦後の取り組みの甘さに起因するかどうかもよく分からない。だが、今回の日韓関係の悪化が、仮に日本の戦後処理と関係がなかったとしても、それによって、日本の戦後の反省に問題がないとはゆめゆめ思わない。
 教育現場における管理統制を目指す動きの強さにしても、それによって実現させようとしている教育の方向性にしても、軍国主義日本の真摯な反省があれば、到底生まれてきそうにないものだからだ。
 もちろん、「憲法」の勉強をする時などは、第9条や国際平和主義に触れないわけにはいかないし、そのためには「戦争の反省」についても語ることにはなっているであろう。だが、それが実際の政治・行政の方向性とが一致していない場合、それは単なる「お題目」すなわち「タテマエ」、ということになる。実際に行われている管理的、強権的な教育への動きの方が「ホンネ」である。
 教育現場以外でも同様だ。首相その他の偉い人が、何かの式典で、戦時中の日本がしたことについて「遺憾」や「お詫び」を表明することがあったとしても、それを本心とは思えない数々の復古的な施策、反動的な動きというものが存在する。「遺憾」や「お詫び」は、国内のそのように考える勢力への配慮もともかく、国際的な批判にさらされることを避けたいから為されるだけであり、なぜ国際的な批判を恐れるかと言えば、それが外交上の問題となり、経済関係の促進に差し障るからである。つまりは、金のためなのである。だからこそ、その「遺憾」や「お詫び」は、白々しく嫌らしい。
 安倍政権だけではないと思うが、政府(要人)は、日韓請求権協定の締結によって戦後処理は終了した、これからは未来志向で行こう、と言うことが多い。韓国が歴史認識にこだわれば、「いったいいつまで言ってんだよ?」といううんざり感が露骨に見える。
 従軍慰安婦の問題にしても、自己肯定感に欠ける気の毒な人達が、それを認めれば「自虐史観」だなどとヒステリックに叫ぶからよくない。反省が、これからを生きる上で糧として価値を持つのであれば、それをいつまでも反省の材料にし続けることに何ら問題はないはずだ。
 つまり、戦後日本の「反省」には、損得勘定ばかりがあって、「まごころ」というものがない。金のことばかりを考えながら、そのための手段として「反省」したふりをするだけである。その意味で、石場氏のような考え方が出てくるのは当然であり、与良氏が言うように、それは「まっとう」であるべきなのである。
 「まごころ」は人間関係の基本である。それがなければ、人間関係は上手くいかない。国家間の関係もその延長線上にある。だから、因果関係は明瞭でなくとも、今の日韓問題と「戦争責任と正面から向き合ってこなかったこと」は、その根底部分においてやはり関係するように思う。
 恐ろしいことに、石場氏のコメントについて自民党内では、「こんな発言をしているようでは、石破氏が今後、首相になる目はない」という激しい批判が出ているらしい。このことが日本の「反省」の意味・価値をよく表しているのだ、ということに、そんな批判をしている本人達はおそらく気がつけないのだろうなぁ。