野坂操寿と伊福部昭

 8月28日の朝日新聞で、野坂操寿(恵子)氏の訃報を見つけた(他紙は翌日)。81歳。箏の演奏家である。私にとっては、伊福部昭の音楽の独奏者として有名。
 木部与巴仁(きべ よはに)も『伊福部昭音楽史』(春秋社、2014年)において、「1990年代の伊福部を考える時に、忘れてはならない演奏家である。彼女の伊福部に対する情熱と尊敬の念が、晩年の伊福部を支えた」と書く。また「弾くことで、伊福部の世界を自分ものにしたい。弾かなければ分からない。伊福部の世界に生きたい。創りたい。演奏者の切実な願いを、野坂の姿に見る」とも。
 もっとも、徹底的に「日本的なもの」を追求した伊福部が、箏に目を付けるのは自然なことだし、昔から、演奏家と作曲家がお互いにインスピレーションを与え合いながら新しい曲を作り出していく、というのはよくあることである。伊福部の人生においても、藍川由美(ソプラノ)、小林武史(ヴァイオリン)、江口隆哉(舞踊)といった存在感の大きな表現者が何人かいる。だが、やはり野坂氏はその大きさにおいて突出していたようだ。
 伊福部昭が何曲か箏のための曲を書いたのは、この人がいたからである。朝日の訃報によれば、野坂は二十弦箏、二十五弦箏を開発し、箏の表現可能性を拡大した。だからこそ、野坂の精神的な支持によるだけではなく、伊福部が表現意欲を感じ、この人が演奏することを前提として箏のための曲を書いたのだろう。2014年に放映されたEテレ「にっぽんの芸能」によれば、伊福部は晩年、二十五弦箏だけで世の中のすべてが表現できると思うようになり、ひたすら二十五弦箏のための曲ばかりを書いたという(→参考記事)。人生の最後に作曲を構想していた曲(未完)も、「ラプソディア・シャアンルルー」という野坂操寿のための箏曲だった。これらは、二十五弦箏の可能性というだけではなく、伊福部にとっても野坂操寿という存在がいかに大きかったかということを物語っているようだ。
 一人で家にいた昨日の午前中、「協奏三題」というCDに入っている「二十弦箏とオーケストラのための交響的エグログ」を聴き、その後、録画してDVDに保存してあった「にっぽんの芸能」を見た(→この番組を初めて見た時の記事)。後者には、野坂氏が伊福部に依頼して作ってもらったという「二十五弦箏甲乙奏合“交響譚詩”」の演奏(もう一人の演奏者は初演時と同じ小宮瑞代)が収められており、演奏に先立って野坂氏に対する長めのインタビューも行われている。実に上品、知的で凜とした魅力的な日本女性だ。和服がたいへんよく似合う。
 演奏は素晴らしいが、なにしろ私は箏の演奏家といえば、宮城道雄と野坂操寿しか知らないといっても過言ではないし、伊福部昭の世界というのは独特である。曲と演奏とを別々に分けて考えることも難しい。ただ、外見の上品・優美に似合わず、野坂操寿という人は激しい気性の持ち主であるらしい、ということははっきりと感じられた。
 伊福部昭は没後13年。いま野坂操寿が死んだことで、伊福部はいよいよもって過去の作曲家になった。「過去の作曲家」というのは、「役目を終えた」とか「時代遅れの」という意味ではない。「古典」になり得るかどうかが問われ始めた、ということである。それほど、音楽の世界において二人は不可分だった。合掌。