京アニの実名報道

 京都アニメーションという会社が放火され、35人もの方が亡くなった。遺族の中には公表を望んでいなかった方も多く、亡くなった方の全ての実名が公表されたのが8月2日、すなわち事件の40日後になったということで、公表の是非や時期について議論が尾を引いている。さて、この問題をどう考えるべきだろうか?
 私は、40日後に全員の名前が公表された時、その間の事情を知って、どうしてわざわざ公表する必要があるのか?と半ば憤った。ゴシップ的な好奇心というか、興味本位の報道の一種だと思ったのである。新聞を中心に、識者の意見というのはあれこれと目を通したつもりだが、どうしても、実名公表の社会的意義を見出すことができなかったのである。その後も、ぽつりぽつりと報道を眺めながら、その是非について心の中で問い直す日々が続いた。
 それから更に1ヶ月半が経った。一昨日の毎日新聞では、紙面の3分の2を占める大きな特集記事「被害者の実名報道どうあるべきか」を載せ、3人の識者の意見を取り上げている。私がその是非について最も考え込んだのは、法政大学教授・津田正太郎氏の意見だ。曰く、「(実名を公表しないことで)被害者取材がなくなれば、警察の発表に依存した報道になり、権力監視機能が失われる恐れもある」。曰く、「英米圏などでは被害者報道への批判はあまり見られない。名前が出ることへの嫌悪感には、日本特有の部分もあるのではないか」。これらを見ながら、現時点で私が考えていることを書いておこうかという気になった。
 前者については、最初なるほどと思った。例えば、警察が「共産党の某氏により、5人の人が殺害された」と発表したとする。この事件が、反共的な考えを持つ自民党など政府与党によるでっち上げでないかどうかは、加害者、被害者の実名が公表され、警察権力以外による検証が可能になっていなければ確かめられない。
 しかし、その場合、公表すべき事件は政治性を帯びたものに限るとか、加害者だけは必ず公表し、被害者については被害者本人もしくは遺族の意思を尊重するとかいう形にできないのだろうか?もっとも、政治性があるかどうかはおそらく判断が難しい。一見、政治性があるとは思えないが、実は調べてみると意外な犯罪構造が明らかになるということはあり得るだろう。そうなると、やはり公表は必要だということになる。
 今までに私は、「推定無罪」という刑法上の原則から、容疑の段階で実名を公表するべきでないということを何度か書いたことがある(→例えば)。今、上のようなことを考えていて、裁判が終わってからでは周囲による検証が遅きに失することがあり得るような気がしてきた。物証もアリバイもなく、本人も犯行を認めていないというなら別だが、そうでなければ、裁判が終わらなくても、一定の段階で容疑者の実名を公表することは、やむを得ないことであるかのように思えてきた。
 後者については、「名前が出ることへの嫌悪感」が「日本特有」であるかどうかは分からない。NHKから民法まで、あまりにも興味本位の、「お涙ちょうだい」か「英雄万歳!」式の報道ばかりが多い昨今の状況下では、私だって、理由が何であれ、マスコミに実名を含めた自分の姿をさらす気にはなれない。つまり、「名前が出ることへの嫌悪感」は、マスコミの報道姿勢が生んだ問題のように思われる。もっとも、日本に比べて米英のマスコミが健全かどうかも分からない。
 だとすれば、実名を公表するかどうかは、公表された後に世間がそれをどう扱うかという問題と不可分だ、ということになる。本来、報道の自由は、民主主義を健全たらしめるという目的のためにこそ行使されなければならない。その目的を離れ、興味本位に堕したマスコミが、実名公表をためらわせるのである。
 警察が、いや、政治家が警察権力を使って陰謀工作をするようなことは決してあってはならず、そのことに目を光らせるためには実名の公表は必要だ。しかし、それを進める一方で、公表された実名の用い方について何かしらの釘を刺すことも必要だ。それができなければ、やはり実名公表は控えようという話になり、その結果、権力の喜ぶ可能性が増す。単に実名公表が是か非かというだけでなく、実名公表ができるような世の中(マスコミ)を作りたいものだ。