幻の新関温泉(資料2)

(平居注:「浴法」「地理」「位置」省略)

「気候」
土地高峻、境区幽僻なるが故に、夏季は大気清涼にして、三伏酷烈の時すら朝暮は70度に騰ることなく、日中と雖も尚ほ85度に過ぎず。故に、この地夏夕蚊帳を用ひるの煩ひなし。積雪は最深2尺に及び、毎歳12月に降り、3月に至りて消解す。而して曇天雨日には泉温を増し、風日には稍熱度を減ず。若し大雨の後、渓水漲るときは、泉量も亦著しく増加するを常とす。

「宿屋費用」
新関温泉旅館は、浴室始め座席什器に至るまで清潔善美を尽し、就中その風光の佳絶、大気の新鮮と併せ賞して、天下無双と称するも、亦敢て誇言にあらざるが如し。
凡そ浴客の湯戸に投ずるや、必らず旅籠自炊何れかに依らざるべからず。旅籠は通常これを三等に区別し、一昼夜の宿料は、三食付一等を壱円、二等を八拾銭、三等を六十五銭とす。而して自炊は燈油、薪炭料、夜具席料として一人一日拾七銭より四拾銭の間を納る。日常必需の食品は、概ね之を温泉宿より仕出し、野菜、果実の類は当温泉場付属農場より安値を以て求むることを得れども、若し欠乏を告げたるときは、郡内各方面より仰ぐが故に、不自由を感ずること毫もなし。

「浴客」
新関温泉は、発見以来日猶ほ浅くして、随て客舎その他総て不準備なるが為め、折角来浴の方へも、坐席の都合に依り、往々謝絶するの止む無きを遺憾とす。茲に数百名の職工を指揮し、客舎その他万般の工事全くその功を竣へ、故に爾来来客をして不便を感ぜしめる等のことなきを保し、而して僅々一両年間の経験に依れば、浴客総数例歳二万人以上に及ぶ。蓋しこの地は尤も春夏秋の遊浴に適すると、刈田岳、熊野岳、五色岳、登攀の行者夥しきに因る。多くは子宮症上、脚気、痔疾、リュウマチス、その他諸黴毒等の患者にして、春は養蚕家多く、夏は商家官吏学生多し。秋は四民群集して、その熱閙殊に甚だしく、之に反して初冬は避喧の人を多しとす。而して、この間も雑沓を極むるは8月上旬より10月中旬にして、3、4、5月之に亜ぎ、頗る寂寥を覚ゆるは12月より翌春2月までの間とす。
管内の浴客は、重に仙台以南の諸郡より来り。仙北の各郡之に次ぐ。管外にては山形県一圓及び福島県の北部の浴客最も多しとす。

「交通」
当地より最も近きは青根郵便局にして、為替貯金小包の取扱を便利とす。配達局は遠刈田郵便局にして、集配は毎日一回午前十時なれば、当日の新聞をも閲覧することを得べし。
電信は郵便送達なれば、刈田郡白石局を便利とす。
 (平居注:同場より各地への里程概略表 省略)
先年、遠刈田温泉場に達する道路を改修して行旅の便を与へしも、未だ椀車馬車を駢行せしむるに足らざるを覚り、更に大土工を起して岩石を砕き、峻険を夷らげ、大河原、白石両鉄道停車場間に定期往復馬車を開きて、汽車便と聯絡を通じたり。又宝沢越、山形県への捷路も得たれば、その利便たる前年の比にあらず。

(平居注:「散策地」「物産」省略)

「発見の由来」
新関温泉は最近の発見に係るを以て、その由来する処極めて明瞭確実なり。主人幼よりして温泉を好み、癖嵩にして、竟に自ら新温泉を発見せんと庶幾ふ。たまたま明治40年春、自家経営の牧場並に造林の監督として宮城県界に遊ぶや、その地五色一帯の火山脈に当るを知り、乃ち監督の余暇、単騎巉岏を攀づる者二十有余日、荊棘の下、端なく湯花らしき者の流るるを見る。これ同年4月18日の事たり。試みに掘鑿すれば、果して微温湯出づ。主人勇躍、直に人夫二百を以て大規模の隧道を掘鑿せしむ。敢て技師先生の手を藉らざる也。土砂を掘り、岩石を砕きつつ、突入する事十七間、漸く温湯に達す。この工程凡そ6ヶ月、同年9月8日、山骨冷かなるに及んで、一先づ工事を止む。翌41年4月、再び工事に着手するや、隧道は堆量と共に無惨に壊崩せるも、その入口の辺、雲と見まがふ白烟は、正しく熱湯の蒸発するなりき。破壊を修覆しつつ更に掘り進む事十間、忽ち一大炭石に当たり、瀑然として熱湯の噴出するを見る。現在用ふる所の湧出口、即ち是れ主人宿昔の志、茲に初めて成る。之を是れ新関温泉発見の由来と為す。
(『新関温泉小誌』ここまで。別資料に続く。)