教員の専門性

 今日の毎日新聞「教育の窓」欄に、「教員を魅力ある職業に」という記事が出た。OECDシュライヒャー教育・スキル局長が来日して、パネルディスカッションを行ったことに基づく記事だ。
 棒グラフが添えられている。「教師の専門性が社会で評価されているか」との質問に対する中学校教員の回答を、マレーシア、シンガポール、韓国、平均(おそらくOECD加盟国の平均)と日本とで比較したものである。「同意する」と回答した教員の割合が、マレーシア約85%、シンガポールと韓国は約75%であるのに対して、日本は30%弱。もっとも、平均は意外にも30%強で、日本とあまり違わない(本当かな???)。
 マレーシア、シンガポール、韓国と比べて、日本の教員が著しく卑屈、もしくは誇りが持てない状況であることは一目瞭然だが、私が思う所は少し違う。そもそも、日本の教員は、このアンケートに回答した時に「教師の専門性」をどのように意識していただろうか?という問題だ。
 ごく普通に考えれば、教師の専門性とは、教科教育の専門家としての能力を意味するだろう。しかし、教科教育=授業が、日本の教員の仕事の何割を占めるか、ということを考えてみると、俄然その意味は曖昧となる。そしてまた、「教科教育が日本の教員の仕事の何割を占めるか?」と言う場合、意識においてと時間においてでは値が大きく変わるはず(前者の方が高く、後者が低い=教科教育の専門家でありたいと願いつつ、それができない)なので、そこを曖昧にしたままでもアンケートは価値を減ずる。
 私だけでなく、あちらこちらでよく言われるとおり、部活、生活指導、進路指導、保護者対応などなど、日本における教員の仕事は究極のよろず屋なのであって、真面目な人であればあるほど、自分の仕事の専門性が何かなんて分からなくなる。少なくとも、自信を持って自分の仕事の専門性が「授業」において問われると考える人は少ないだろう。そう言い切れる人がいるとして、その多くはタテマエによる回答であり、ホンネは?となれば、やはり回答は弱気に転ずるに違いない。数学の教員として採用され、やったことのないバスケットボール部の顧問をさせられ、生徒同士のコミュニケーションに関わる保護者からのクレームに頭を痛める教員に、教科の専門家として評価される教師になれ、と言っても、どだい無理な話である。
 「国語」の試験を採点することは非常に難しい。明確な採点基準を設定し、それに完璧に忠実な採点をするなら、さほど難しくないかも知れない。怪しい答えは全て×である。ところが、白紙の答案と書き切っている答案に価値の上下をつけようと思い、少しでも評価に値する点を見つけては△をつけ始めると、採点作業は一気に混迷に入り込む。平仮名一文字の違いで答えのニュアンスは大きく変わるし、○と△、△と×の間に、無限のバリエーションが存在し、それのどこまでに何点与えるかということが問われてくるからである。わけが分からなくなって、えーい、これならいっそ模範解答どおりの答案以外は×だ、と元に戻ることも珍しくない。
 このことは、原点の大切さを物語っているだろう。事態が紛糾し、混迷に陥った時、対症療法によってそれを乗り切ろうとすること、相対的に物事を考えて解決を図ることは、事態をより複雑にしてしまう可能性が高い。紛糾した時には、原点に戻ること、原点(原則)に忠実に行動することが大切なのだ。
 近年、教育の現場でも「働き方改革」ということがよく言われるようになった。お上は、そんなスローガンをいくら叫んでもダメである。学校が本来教科教育を中心とする場所で、そのためには今行われている何を捨てるべきか、学校にとって何が本分で、何が余計なことなのか・・・それを社会全体に対して明確に示していくことが必要だ。
 OECDは、調査の際に、「必ず事実とホンネに基づいて回答すること」と注記した上で、教員の専門性とは何か?という質問をも用意して欲しかった。おそらく、日本の教員が「わからない」を選ぶ率は、他国に比べて際だって高いに違いなく、そのことこそが日本の学校の抱える問題を明らかに示すはずなのである。 

(→参考記事「学校の権威とは」