犠牲者名を残す愚

 今日は、勤務先の高校が「芸術鑑賞会」だった。なにしろ、県内最大の公立高校。学級減の影響で、私が赴任した3年前よりは100人近く減ったとは言っても、生徒数は1100人を超える。教員を入れると1200人だ。全員を収容できるホールというのが、宮城県内に4つしかない。今日の会場は、仙台市の中心部。学校から徒歩・電車・徒歩で1時間以上もかかる県民会館(東京エレクトロンホール)であった。
 今年は、山形交響楽団(指揮:佐々木新平)の演奏会。え?宮城県なのに、どうして仙台フィルじゃないの?というのは当然の疑問である。学校も、当初は仙台フィルと交渉したのである。しかし、金銭的な折り合いが付かず、山形からオーケストラを呼ぶことになった。山形交響楽団は、財政状況が悪い結果と言ってしまえばそれまでなのだが、確か、スクールコンサート開催数全国1位のオーケストラである。安いから、というだけではなく、高校生の状態をうまく把握しながら、実に慣れた感じで進めてくれてよかったと思う。
 私はとても楽しみにしていた。オーケストラだから、というのではない。リハーサルを見せてくれる、というからである。音楽は、結果よりも創造の過程の方が絶対に面白い。もやもやとまとまりのない音楽が、指揮者の些細な指示によって、明確な方向性を持つまとまった楽曲へと変貌していく様は感動的だ。しかし、プロ・オーケストラのリハーサルに立ち会うチャンスというのはめったなことで得られない。それが、担当者に聞けば、自由に見学しもらっていい、というのである。役得だ。
 私は、開演よりも2時間半以上早い10:20に会場入りして、10:30からのリハーサルを見せてもらった。定期演奏会のような本格的な演奏会と違い、曲の断片をつぎはぎしたようなプログラムだということもあって、本来私が期待していたようなリハーサルにはならなかったが、リハーサル時間の約半分を費やした塩釜高校吹奏楽部との合同演奏(「アイーダ」の凱旋行進曲)は、高校生の緊張を和らげながら、なんとかちゃんとしたヴェルディにしようといういう工夫が見られて面白かった。
 本番も、最初は物足りないと思っていたプログラムが、意外にそうでもなく、飽きる前に場面が変わっていくような心地よさがあって楽しかった。開演前の校長挨拶の時にはざわざわうるさくて、大丈夫かな?と心配した生徒たちも、オーケストラが音を出し始めると、一瞬にして静かになり、とても良好な鑑賞態度だった。いい1日を過ごさせてもらった。

 話は全然変わる。
 今朝の「石巻かほく」のトップ記事は、「犠牲4000人 名前刻む 石巻南浜津波復興祈念公園」というものであった。我が家の下、津波で壊滅した石巻市南浜町に広大な(38㏊!)公園を作っているという話は、極めて批判的な調子で、今までにも何度となく書いているのだが、そこに、その場所で犠牲となった人々の名前を刻んだ石碑を作るのだという。本当にどうしようもないくらいアホだな、と思った。自然災害による犠牲者について、公的な慰霊・追悼の場を作る必要がないことは、かつて、この公園を作ることについての責任者(国交省の役人)にも直接言ったことがある(その時、氏は私に同意していた→参考記事)。
 戦争の死者と、自然災害の死者は意味が根本的に違うのである。前者は社会の犠牲者であり、その死に責任があることを示す意味でも、今後、社会がそのような犠牲者を出さないようにするためにも、名前を刻み残すことに意味があるかも知れない。だが、津波による死は、社会的犠牲ではない。本人の責任も少なからずある。多数か少数かは問題ではない。南浜の犠牲者名を石碑に残すのであれば、他の場所でも全て残すべきだし、今秋の豪雨による犠牲者についても同様にすべきである。1箇所でたくさんの方が死んだことなど、公費で石碑を作ることの理由にはならない。100歩譲って、公園を作ることは津波災害の後世への伝承という社会的価値があるという理由で認めるとしても、個人名を刻んで残すことは公費ですべきことではない。どうしてその程度のことが「有識者」と呼ばれる人達に分からないのだろう?
 昨日のトランプ政権やグリーンランドの話も、実は、全く無関係なようでいて根は同じ。人間が哲学の能力を失った結果としての内部崩壊だ。自分ばっかり分かっているような顔をするな、尊大だという批判は甘んじて受ける。だが、私はやっぱりそう思う。